カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

環日本海ツーリング[88]

投稿日:2012年6月9日

雨の中、州都ハバロフスクに到着した

 少数民族のナナイ族が住むシカチェイリアン村では資料館を見学したあと、アムール川の河原まで行き、悠々とした流れを見た。
 ハバロフスクへの街道に戻ると、道路沿いのカフェで昼食。アゼルバイジャン人のやっている店。我々の人数分の料理はつくれないが、スープなら出せるという。
「いいですよ、それで」ということで、黒パンとスープのみというシンプルな昼食を食べることができた。

シカチェイリアン村を流れるアムール川
街道沿いのカフェ


黒パンとスープの昼食
カフェの隣の家。犬が吠えている


 ハバロフスクに近づくと一気に交通量が増えてくる。あいにくの雨。雨具を着てハバロフスク市内に入っていく。
 ハバロフスクは人口60万人。ハバロフスク地方の州都になっている。
 まずは郊外の日本人墓地に行く。広い墓地の一角が日本人墓地になっている。中央には「日本人墓地」と漢字で記された墓石が立ち、その周辺には約300人の日本人の墓がある。大半は終戦後の強制抑留、強制労働で死んでいった人たちだ。
 旧ソ連が日ソ不可侵条約を破棄し、日本に対して宣戦を布告したのは終戦間近の昭和20年8月8日。広島に原爆が投下された後の事だ。なんとも卑怯な宣戦布告としかいいようがないが、まあそれはおいて終戦後、ソ連は約58万人もの日本人をシベリアに強制抑留した。各地の収容所に抑留された多くの日本人は、シベリアの厳しい冬の寒さや苛酷な強制労働で死んでいった。そのような日本人の墓地がシベリアの各地にある。
 次に中心街のレーニン広場に行く。そこに我々はバイクを止め、ハバロフスク到着を喜びあった。広場に集まっていたコスプレの若者たちも一緒になって喜んでくれた。
 ハバロフスク到着のセレモニーを終えると、アムール川に近い高層の「インツーリストホテル」へ。ここが我々のハバロフスクでの宿で連泊することになっている。部屋に入るとカンビールで乾杯。これで2002年の「ユーラシア横断」とつながった。

ハバロフスクの日本人墓地
日本人墓地を歩く


ハバロフスクのレーニン広場
レーニン広場のレーニン像


レーニン広場に集まったコスプレの若者たち
「インツーリストホテル」に泊まる


「ユーラシア横断」は道祖神のバイクツアー「賀曽利隆と走る!」の第7弾目。
 富山県の伏木港を出発し、ロシア船で日本海を渡り、ウラジオストック港に上陸。ウラジオストックからハバロフスク、イルクーツク、ノボシビルスクと通り、ウラル山脈を越えた。モスクワからはヨーロッパの国々を通り、ユーラシア大陸最西端、ポルトガルのロカ岬にゴールにしたのだ。
 このとき、今回のスズキDR-Z400Sで1万6000キロを走った。それがすでに10万キロを超えているDRの走り初めになった。
 ということで次回からは番外編として、DRでの「ユーラシア横断」を何回に分けてお伝えしよう。

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