カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

環日本海ツーリング[95]番外編

投稿日:2012年6月16日

ユーラシア横断(7)モスクワ→ベルリン

2002年7月27日(土)晴 モスクワ→スモレンスク 430キロ
 8時、ホテルのレストランで朝食。日本人の団体客と一緒になる。久しぶりに見る日本人。
 8時30分、出発。タクシーに先導してもらいモスクワの中心街を抜け出る。17台のバイクで大都市を抜け出るまでは緊張の連続だ。
 モスクワからはM1(国道1号)を西へ。4車線のハイウェイ。ヨーロッパ各国からの大型トラックを頻繁に見る。さわやかな青空が広がっている。
 18時、ベラルーシとの国境に近いスモレンスクに到着。泊まった「ホテル・ロシア」では結婚式の披露宴。新郎、新婦を中心に参加者たちは輪になって踊っている。
 夕食はホテルのレストランで。パン、チーズ、肉料理&サケのフライ。それにサラダがついている。
 夕食後、町を歩いた。トラム(市電)、教会、城壁。ドニエプル川を見る。

モスクワからM1を西へ
結婚式の披露宴。スモレンスクのホテルで


2002年7月28日(日)晴 スモレンスク→ミンスク 349キロ
 早朝のスモレンスクの町を歩く。ドニエプル川からは川霧が立ち上っている。
 7時、朝食。パン、チーズ、サラミ、サラダ、ヨーグルト。
 8時、出発。85キロ走り、9時30分にはベラルーシとの国境に到着。ロシア側の出国手続きは簡単に終り、ベラルーシ側へ。
 ベラルーシ側の入国手続きは、ここでグリーンカード(ヨーロッパ全域で通用するバイク保険)に入ったこともあって、かなり時間がかかった。
 ポーランド人カップルのライダーとロシア人カップルのライダーに出会う。ポーランド人のカップルはシベリアを横断してここまでやってきた。これからポーランドの首都ワルシャワに向かうという。ロシア人のカップルはロシアの飛び地、バルト海に面したカリーニングラードに向かうという。
 国境ではTIRマークをつけた大型トラックが100台以上もの長い列をつくっていた。「TIR」というのはフランス語の「TRANSPORT INTERNATIONAL ROUTIERES」の略。トラックの国際便だ。
 11時30分、国境通過。ロシアからベラルーシに入る。M1で首都のミンスクへ。
 その途中ではスピード違反で捕まった。その場で罰金。2万3000ルーブルを取られた。もう1人、川澄さんも捕まったが、警官に「キミは(F1レーサーの)シュマッハを知っているか。よく似ているよ」といわれた。それ以降、川澄さんのニックネームは「シュマッハ川澄」になった。
 M1沿いのレストランで昼食。シシカバブーのようなシャシリックを食べる。
 首都ミンスクに到着したのは17時30分。「ホテル・ユビレジナヤ」に泊まる。
 ホテルのレストランで夕食。グラタンと鶏の唐揚げ。夕食後はミンスクの町を歩きまわった。

ベラルーシ国境近くのスモレンスクの町
ロシア人ガイドのアレックス


スモレンスクの教会
ロシアとベラルーシの国境で


ベラルーシのガソリンスタンド
昼食のシャシリック。牛肉


2002年7月29日晴 ミンスク→ブレスト 350キロ
 6時、起床。早朝のミンスクの町を歩く。今日も晴天。朝から暑い。
 7時30分、朝食。パン、チーズ、ハム、フライドエッグ、ヨーグルト。
 8時15分、出発。M1でブレストへ。4車線の有料道路。きれいな舗装面。速度が5キロから10キロぐらいは延びる。制限速度は100キロ。前日、スピード違反で罰金をとられたのにもかかわらず、2、30キロオーバーの120キロから130キロぐらいで走る。トラックの制限速度は80キロだ。
 昼前から猛烈な暑さ。熱波襲来といった感じ。 
 12時、M1沿いのカフェで昼食。カツレツ&マカロニ。それにサラダとスープがついている。
 高速の一気走りで15時にはポーランド国境近くの町、ブレストに到着。
「ホテル・インツーリスト」に泊まる。あまりの暑さに、シャワーを浴びるととひと眠り。体がスーッと楽になる。
 19時30分、ホテルのレストランで夕食。ライス&ビーフ。
 夕食後、夜の町を歩いた。

ミンスク郊外の高層住宅群
ミンスクで泊まったホテル


ミンスクの教会
ミンスクの中心街


ベラルーシの有料道路
ポーランド国境の町、ブレスト


2002年7月30日(火)晴 ブレスト→ワルシャワ 225キロ
 8時、「ホテル・インツーリスト」のレストランでの朝食。
 9時、出発。5キロほどでポーランド国境に到着。
 ベラルーシの出国が大変だった。出国を待つ長い車の列に並び、やっと最初のバーまで来たが、何とラインが違うと難クセをつけられ、別のラインの最後部に戻された。
 延々と待たされ、やっと最初のバーを突破し、2番目のバーまで来ると、今度は出国税を払っていないといわれ、別なオフィスで1人20USドルを払わされた。
 最後はパスポートコントロール。
 国境事務所までの100メートルほどの車の列はほとんど動かない。動かないまま、昼が過ぎた。この日も猛暑。日影をさえぎるものもない。モロに直射日光を浴びつづけるので、頭がガンガン痛み出してくる。もう日射病でぶっ倒れる寸前だ。
 ぼくはそれまでに世界の130余国に入ったが、出国手続きでこれほど待たされた国はない。我慢に我慢を重ね、やっとベラルーシを出国。ポーランドに入国手続きにはほとんど時間はかからなかった。
 ベラルーシからポーランドに入ったのは国境に到着してから6時間後の15時過ぎだった。
 国境からは国道2号で首都ワルシャワへ。
 18時、ワルシャワに到着。「ホテル・アラミス」に泊まる。夕食はホテルのレストラン。ライス&チキン。
 夕食後、夜の歩いた。
 ワルシャワは1990年の「世界一周」以来で、12年ぶりになるが、町並みはすっかりきれいになっていた。車も新車がバンバン走っている。ボロ車はほとんど見られない。市電もバスも新しくなっている。店のショーウインドーには豊富な商品が並んでいる。
 1990年に来たときはとにかくモノがなかった。
 スーパーマーケットに入っても、閑散とした品揃え。町を走りまわっているのは大半がオンボロ車。
 町のあちこちにはフリーマーケットができていた。そこでは野菜類やリンゴ、オレンジなどの果物類、キャンディーやチョコレートなどの菓子類、パン、チーズ、ハムといった食料品から衣類、本、工具、カセットテープ、ラジカセ、カメラ…と、いろいろなものが露店もしくは小屋掛けの店で売られていた。
 売る側も、買う側も、嬉々としている(ように見えた)。
 ぼくはそのとき、ふと戦国の武将、織田信長が岐阜城下に開いた楽市、楽座がこんなものでなかったかと思ったほどだ。
 1990年はまさに激動の「東欧の時代」で、社会主義体制が崩壊し、資本主義体制に組み込まれていった年。ワルシャワは資本主義体制下の12年間で大きく変った。

ワルシャワで泊まったホテル


2002年7月31日(水)晴 ワルシャワ→ポズナニ 350キロ
 7時、「ホテル・アラミス」の朝食。パンと2種類のチーズ、ハム、サラミ、サラダ、それとゆで卵。
 8時、出発。国道2号でポーランド西部の中心都市、ポズナニへ。北ヨーロッパの大平原を突っ走る。
 昼食は国道2号沿いのレストラン。まずはスープ。酸味のある伝統的なスープ。そのあとでカツレツ、ポテト、キノコ、サラダのメインディッシュを食べた。
 17時、ポズナニに到着。町中を走り抜け、郊外の湖畔の宿で泊まる。山荘風の「レスト・ラクノクス」。
 猛暑の中を走りつづけたので我ら「ユーラシア軍団」、さっそく湖に飛び込み、泳いだ。きれいな湖水なのだが、藻がすごい。あっというまに藻が体にからみついた。湖でひと泳ぎしたあと、「レスト・ラクノクス」のレストランでまずはビールで乾杯。そのあとスープ、カツレツ、ピラフ、サラダの夕食を食べた。ポーランドでもカツレツは国民的料理になっている。

ドイツ国境へとつづく国道2号


2002年8月1日(木)晴 ポズナニ→ベルリン 278キロ
 6時、朝食。コーンフレーク、パン、チーズ、ハム、コーヒー。
 7時、出発。国道2号を走り、ポズナニから176キロでドイツとの国境に到着。ポーランドの出国手続きを終え、オーデル川を渡ってドイツに入った。時間は10時だ。
 国境からベルリンは近い。A12→A10とアウトバーンを走り、12時にはベルリンに到着。昼食のサンドイッチを食べたあと、ベルリンの町を歩く。地下鉄にも乗った。ベルリンの中心、ブランデンブルグ門にも行った。なつかしい。1990年の「世界一周」が無性になつかしく思い出された。
 その前年、1989年11月9日に「ベルリンの壁」が崩壊。ぼくの行った1990年9月の時点では、まだ、かなり「ベルリンの壁」が残っていた。ブランデンブルグ門と、かつての東西ベルリンを結ぶ唯一のゲートだったチェックポイント・チャーリーの間を歩いた。
 そこでは衝撃の光景を目にした。世界中からやってきた旅行者たちが、いたるところでハンマーやバールで「ベルリンの壁」をぶち壊し、そのカケラを拾っていたのだ。
 ぼくもオーストラリアから来たという青年に鉄パイプを借り、コンクリートの壁をたたいた。
「ガーン、ガーン!」
 という音が耳の奥底に、こびりつくようにしていつまでも残った。
 東西ドイツが統合されたのはその直後の10月1日のことだった。

ベルリンに到着
ベルリンの地下鉄


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