環日本海ツーリング[124]番外編
投稿日:2012年7月18日
韓国一周2000(1)
一路、下関へ
バイクでの「韓国一周」は、ぼくの長年の夢だった。これほど近い日本と韓国だが、韓国へのバイクの持ち込みは法律で禁止されているので、それは夢のまた夢でしかなかった。ところが今回、JTB『旅』編集部のみなさんや韓国観光公社の強力な後押しのおかげで、なんと韓国政府から特例中の特例ということで、韓国へのバイク持ち込みの許可をもらうことができたのだ。その知らせを聞いたときは、正直、飛び上がりたいほどだった。
我が53歳の誕生日の2000年9月1日に、神奈川県伊勢原市の自宅前を出発。自分自身の旅の新たな地平を切り開くかのような意気込みでの旅立ちだ。バイクは昨年(1999年)の「日本一周」で4万キロを走っているスズキDJEBEL250GPS。さらにこのバイクでは昨年の温泉めぐり1万5000キロと、今年の「サハリン縦断」を含めた東北、北海道8000キロなど、1年半ですでに7万キロ近くを走っている。
4サイクル250?バイクのスズキDJEBEL250GPSは、日本製バイクの中では唯一の標準装備でのGPSつき。「韓国一周」では韓国本土の最東西南北端に立ち、38度線を越えるつもりなので、このGPSがおおいに威力を発揮してくれることになる。
一路、下関へ。往路は国道1号、2号をメインに太平洋・瀬戸内海側を走っていく。
第1日目の夕食は浜松の旧国道1号沿いの焼肉店「てんぐ」でカルビの焼肉と雑炊のクッパを食べた。第2日目の昼食は大阪のコリアンタウンの鶴橋。JR鶴橋駅前の「アジヨシ別館」で冷麺を食べた。
第2日目の夕食は岡山県備前市の国道2号沿いの焼肉店「はるやま」で牛のロースの焼肉とユッケ、ビビンバを食べた。前日のカルビ、クッパ同様、このビビンバも、ラーメンやカレー、ピラフなどと同じように、今ではすっかり日本語に定着した感がある。ビビンバは韓国語のビビンバップのこと。“ビビン”は混ぜるの意味で、“バップ”はご飯。つまりは混ぜご飯のことだ。器の飯の上にのせた具をかき混ぜて食べるのでビビンパップなのである。
「はるやま」のビビンバには新鮮な牛肉のたたきのユッケのほかに、ゼンマイ、モヤシ、ダイコン、ホウレンソウの具がのっている。それに卵を落としてある。調味料として辛いコチュジャンがつく。店のおかみさんは「ビビンバにはゼンマイとモヤシは欠かせないものなの。韓国の人はゼンマイをよく食べるのよね」と教えてくれた。
ぼくの旅の仕方は、徹底した現地食主義。現地のものをできるだけ現地の人たちと同じようにして食べる、これがなによりもの旅のおもしろさだと思っている。
ということで、「伊勢原→下関」間では日本風韓国料理を食べ歩いたが、これが「韓国一周」での本場韓国料理食べ歩きのちょうどいい慣らしになった。
釜山に上陸!
2000年9月3日12時、本州最西端の下関に到着。下関の町をひとまわりしたところで、関釜フェリーの出る国際ターミナルに行く。昨年の「日本一周」がなつかしく思い出されてくる。この下関港国際ターミナル前でバイクを停め、そこを「日本一周・本州編」のゴールにしたのだが、
「いつの日か、きっとバイクでここから釜山に渡ってやる!」
と熱い気持ちでそう思ったものだ。まさかその日がこんなにも早くやってくるとは。
下関港国際ターミナルでは『旅』編集部の入江一也さんとカメラマンの山崎友也さんと落ち合った。まずは最初の難関の日本出国だ。
下関と釜山を結ぶ国際フェリーの関釜フェリーは、今年で就航30周年を迎えた。30年目にして初めてバイクを乗せるということで、関釜フェリー営業課の大野巨希さんはずいぶんと気をつかってくれた。
一緒に税関に行ってバイクの出国手続きをし、バイクを大型フェリーの「はまゆう」(1万6187トン)に積み込むまでぼくに付き添ってくれた。
18時、定刻どおりに「はまゆう」が下関港を出港すると入江さん、山崎さんと一緒に甲板に上がり、離れゆく下関の町並みに向かって缶ビールで乾杯!
最初の難関を突破した喜びに浸った。
関釜フェリーの「はまゆう」は玄界灘、対馬海峡、朝鮮海峡と日本海南端の海を越え、夜中には釜山港外の五六島のすぐわきに停まった。夜が明け、入国手続きが始まるまでの時間、こうして釜山港外で停泊しなくてはならないのだ。
8時半、「はまゆう」は釜山港の国際フェリー埠頭に接岸。いよいよ最大の難関、バイクの韓国持ち込みの手続きが始まる。
フェリーからバイクを下ろすと、そのまま税関のカウンターに乗り入れる。釜山税関の係官たちは、旅行者のバイク持ち込みなど初めてのことなので、ずいぶんと面食らったような顔つきだ。税関本部にも足を運び、ついにバイクを引き取ることができたときは、自分が何か、新たな時代を切り開いたかのような高揚した気分を味わった。
「バイクでも車でも、もっと、もっと自由に日本・韓国間を行き来できるようになって欲しい!」
と、ぼくは釜山港で心底、熱望した。
そうすれば今は1日1便の関釜フェリーも、イギリスのドーバーからドーバー海峡を越えてヨーロッパ大陸に渡るフェリーのように、スペインのアルヘシラスからジブラルタル海峡を越えてアフリカ大陸に渡るフェリーのように、1日に何便も出るような国際フェリーになることだろう。下関、釜山での出入国の手続きも24時間、いつでもできるようになる。そんな日が1日も早くやってきて欲しい!
そのときこそ、日韓新時代の夜明けだ。
「釜山→木浦」(南部編)
2000年9月5日午前6時、入江さんと山崎さんの見送りを受け、釜山駅前を出発。これから時計回りで韓国を一周するのだ。方形をしている韓国なので、それぞれの辺ごとの、4ステージに分けての「韓国一周」。
第1ステージは「釜山→木浦」の南部編、第2ステージは「木浦→ソウル」の西部編、第3ステージは「ソウル→巨津」の北部編、最後の第4ステージが「巨津→釜山」の東部編。その間で、韓国本土の最東西南北端に立とうと思っている。
早朝の釜山の市街地を抜け出し、洛東江(韓国では“江”が川になる)の河口堰にかかる橋を渡って西へ、国道2号を行く。この国道2号の終点が木浦だ。
韓国は高速道路が発達しているが、バイクは通行不可なので、国道をメインにしての「韓国一周」となる。簡単にいうと、偶数ナンバーの国道2号、4号、6号が半島を東西に横断する幹線で、奇数ナンバーの国道1号、3号、5号、7号が半島を南北に縦断する幹線になっている。
道路標識はしっかりしている。
韓国語文字のハングルとアルファベットで書かれているのでまったく問題ない。
「これは日本以上だ!」
と思わされたのは、アメリカのシステムを取り入れているからなのだろう、国道の重複区間には2本、もしくは3本の国道ナンバーがきちんと併記されていることだ。日本でも最近になってやっと2本以上の国道の重複区間を表示をするようになっているが、まだまだ未整備。大半の重複区間は、より重要な若い番号の国道ナンバーだけの表示になっている。
鎮海、馬山と大きな町を通っていくが、とくに馬山は大渋滞。韓国の急速なモータリゼーション化には目を見張らされるほどで、韓国全土、どこにいっても車であふれかえっている。その車もヒュンダイ(現代)、デウー(大宇)、キア(起亜)などの韓国車が大半で、世界中を席捲している日本車も韓国では影が薄い。
バイクもデエリム(大林)とHYOSUMGの韓国車が大半で、ときたま日本製のビッグバイクが走っているのを見かける程度。法律で規制されているからなのだろう、韓国製バイクは150?以下の小型車だけだ。
馬山を過ぎた内西で朝食にする。街道沿いの食堂に入り、メニューの一番、上に出ている4000ウオン(約400円)の食事を頼む。出てきたのは定食(ジュンシク)で、ご飯と汁のほかに2種のキムチ、ナムル、豆腐、煮物など全部で7品がついていた。
昼食は晋州を過ぎた横川里という小さな町の食堂で、同じようなやり方で5000ウオン(約500円)の食事を頼んだ。するとご飯にドジョウ汁(チューオタン)、何種ものキムチのほかに、ムック(ドングリの粉の餅)やツェッカル(イカの塩辛)、メルチー(小魚の佃煮)などがついていた。
ここでは河東郡庁(郡役所)財務課の金在校さんというカタコトの日本語を話せる方に出会った。役所の講習会で日本語を勉強したとのこと。金在校さんは「日本の人に会えてうれしい」といって食事代を払ってくれた。ごちそうさま!
蟾津江にかかる橋を渡って慶尚南道から全羅南道に入り、順天から国道17号で南へ。その夜は多島海に面した麗水で泊まった。
さっそく麗水の町を歩く。まだ日は高い。時間はたっぷりある。裏道を歩いていると、老夫婦のやっている手作りのアンドーナツ屋が目に入った。奥さんが小麦粉をこね、旦那が揚げていた。さっそくひとつ買って食べてみる。揚げ具合といい、あんの甘さ具合といい、申し分のない味だ。ひとつ300ウオン(約30円)。
「おいしかったですよ」
と日本語でいうと、老夫婦はうれしそうな顔をした。
旦那は日本語を話せる人で、
「私は京都で生まれました。京都の国民学校で1、2年過ごしたあと、両親と一緒に北海道に渡り、北海道各地を転々としました‥‥」
と、日本語を思い出すかのような口調で語った。
北海道では大変な苦労をしたということだが、ぼくが日本人だということで遠慮もあったのだろう、「もう、遠い昔のことですから‥‥」と、遠くを見るような目つきでそういった。
老夫婦手作りのアンドーナツを4つ、袋に入れてもらい、それを食べながら歩いた。
大露天市、韓国の木造の建物では最大という鎮南館、麗水港の旅客ターミナルと見てまわり、最後に全羅線終着の麗水駅まで行ってみた。
翌日は木浦へ。国道2号の康津を過ぎたあたりの広々とした水田地帯を走っていると、初めての土地なのに、なにか、無性になつかしくなってくる。遠い昔に来たことがあるような、そんななつかしさなのだ。
我が賀曽利一族は房総半島の小村の出なので、朝鮮半島とは関係ないと思うのだが、
「ご先祖さま、帰ってきました!」
と、思わず声を出したくなるほどのなつかしさだった。
康津から国道18号で海南へ。そこから65キロ、韓国本土最南端の土末に行く。DJEBELのGPSは北緯34度17分41秒を表示している。日本最西端駅の松浦鉄道たびら平戸口駅まで301キロ、JR下関駅までは、407キロの距離だ。これもDJEBELのGPSの表示である。
“土末(トーマル)”とはいかにも最果ての地らしい地名ではないか。朝鮮半島の突端、それだけにはとどまらず、まさに広大なユーラシア大陸の地の果て、そんな連想をさせる土末の地名だ。日本だったら本土最南端の“土末岬”ということで、一大観光地になり、岬への道沿いにはみやげもの屋や食べ物屋がずらりと立ち並ぶところだ。
ところが“岬”という言葉すらない韓国(何人もの韓国人に日本語の岬に相当する韓国語を聞いてみたが、一言で岬をいい表すような言葉は聞き出せなかった。これは中国文化の影響。中国にも韓国にも半島はあっても岬はない)では、とくにどうということのない場所なのだ。
ぼくは今回の「韓国一周」では、かなり地名が詳しく出ている「韓国観光案内図(ツーリストマップ・オフ・コリア)」を使った。それには韓国全土の地名が英語と漢字で書かれている。朝鮮半島の周囲や島々には無数の岬があるが、ひとつとしてCAPEやPOINTといった岬名は出てこない。ガイドブックはJTBワールドガイドの「韓国」を持った。その韓国全体図や各地域ごとの地図にも岬名はひとつとして出ていない。岬には特別な思いを寄せ、強くこだわる日本人と、岬にはまったく興味を示さないかのような韓国人の違いを土末で強く感じた。この違いは何なのか‥。「岬のカソリ」としては、おおいに興味のあるところだった。
この土末の道の尽きたところには、小さなフェリー乗り場がある。そこからさらに南の、多島海の島々へとフェリーで結ばれていた。
海南に戻ると、今度は橋でつながっている莞島と珍島の最端の地まで行ってみる。とくに珍島が印象深い。国道18号の両側にはムクゲのうす紫色の花が咲いている。アワやコウリャンの雑穀畑が目につく。収穫した唐辛子をあちこちで干している。そんな風景を見ながら走った国道18号は小さな港の岸壁で尽きた。目の前の海には独巨群島の小島が浮かんでいた。
その夜、釜山から840キロを走り、木浦に到着。第1ステージの南部編を走り終えた。湖南線の終着駅、木浦駅近くの安宿に泊まり、さっそく夜の木浦の町を歩くのだった。
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