カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

環日本海ツーリング[125]番外編

投稿日:2012年7月19日

韓国一周2000(2)
『月刊旅』2000年12月号所収

「木浦→ソウル」(西部編)

 2000年9月7日午前5時30分、木浦を出発。「韓国一周」の第2ステージ、西部編の始まりだ。国道1号で羅州を通り、光州まで行ってみる。町中のコンビニ「セブンイレブン」で通学途中の女学生たちと一緒に、朝食のカップラーメンを食べた。韓国では今、日本と同じように次々にコンビニができている。日本と違うのは、ほとんどの店内に給湯設備があり、イスとテーブルが置いてあって食事できるようになっていることだ。
 光州から木浦方向に戻り、国道23号を北上。全羅南道から全羅北道を通って忠清南道に入り、錦江河畔の古都、公州へ。公州は東城、武寧、聖王と3代つづいた百済の都。このあと百済の都は扶余へと移る。公州では食堂でドサッと具ののった麺を食べ、国立公州博物館を見学し、宋山里古墳群の一角にある武寧陵を歩いた。
 公州からは国道40号で百済最後の都の扶余へ。錦江の悠々とした流れを目に焼き付けたところで扶余の町中に入っていく。中央のロータリーには百済の英雄、階伯将軍の像が建っている。定林寺址では五重の石塔の「百済塔」を見る。そのあとで国立扶余博物館を見学した。ここで目を引いたのは、百済時代(5〜7世紀)よりもはるかに時代の下った高麗時代(11〜13世紀)につくられた亀石だ。
 大モンゴル帝国の都は草原の町、ハラホリン郊外にあるカラコルムだが、現在、都の跡はきれいさっぱりと何もない。その中にあって唯一、都の四方に置かれ、都を守ったという亀石が2つ残されている。扶余で見た亀石はユーラシア大陸の広大な地域を支配した元の都、カラコルムを思い出させるものであったし、朝鮮半島が大陸と地つづきであることを思い知らせるものでもあった。
 その夜はもう一度、全羅北道に戻り、錦江河口の町、群山で泊まった。
 翌日、群山から錦江の河口を渡り、忠清南道に入り、国道21号で洪城へ。そこから韓国本土最西端の地に向かった。
 端山、泰安と通って韓国西海岸第一の海水浴場、万里浦へ。夏の終わった砂浜に人影はない。この万里浦は東経126度08分40秒。ゆるやかな弧を描く砂浜をさらに西に行った岬が韓国本土最西端の地で、東経126度08分04秒になる。岩のゴツゴツした名無しの岬。「韓国最西端の地」碑的なものは一切ない。万里浦には海水浴で大勢の人たちがやってくるが、わざわざこの最西端の岬までやってくる人はほとんどいない。この地が韓国最西端だと知っている人も多分、ほとんどいないことであろう。
 名無し岬の内側には堤防で守られた漁船用の小さな船着場があり、漁を終えた漁船から魚が水揚げされていた。その船着場の前には新鮮な魚を食べさせる店が1軒あった。
 韓国本土最西端の岬から洪城に戻り、国道21号で天安へ。そこで国道1号に合流し、北へ、ソウルに向かう。忠清南道から京畿道に入る。途中、水原で「韓国民俗村」に寄り道した。以前にも見学したことがあるが、ここは「韓国一周」には欠かせない立ち寄りポイントだ。とくに「民俗館」の模型を使っての展示は見事なもので、一目で韓国の式年行事や年中行事がわかるようになっている。
 水原に戻ると、ふたたび国道1号を北へ。ソウルまでは途切れることのない大渋滞。車の洪水にもみくちゃにされながら走り、漢江大橋で漢江を渡ってソウルの中心街に入ったときはホッとした。ソウル駅裏の1泊2万5000ウオン(約2500円)の安宿に部屋をとると、さっそく夜のソウルを歩く。ソウル駅前に近い南大門から鐘路経由で東大門まで歩いた。帰りは地下鉄に乗って帰ってきた。
 なつかしい14年ぶりのソウル。1986年の夏に東京から飛行機でソウルに飛んだ。鐘路の安宿を拠点にしてソウルを歩き、徹底的にソウルを食べ歩いた。ソウルからは列車で光州、さらには木浦まで行き、全羅南道を食べ歩いた。“食”を通して韓国を見てみようとしたのだ。“食文化研究家カソリ”の華々しい!?デビューはソウルであり、韓国だった。このときの食べ歩きは、それ以降、ぼくの旅の基本的なスタイルになっていった。
“食”を通して見えるものは多いし、大きいし、おもしろい!


より大きな地図で 韓国一周2000 を表示

Comments

Comments are closed.