アドレス日本巡礼[186]
投稿日:2014年11月19日
東西の境目
垂井宿を過ぎると国道21号に合流し、広大な濃尾平野から伊吹山地に入っていく。そして関ヶ原宿に到着。関ヶ原の町中で分岐する国道365号が北国脇往還。玉宿、寺林宿、藤川宿、春照宿、伊部宿、郡上宿を通って木之本宿で北国街道に合流する。
JR東海道線の関ヶ原駅に行き、駅前の案内板で情報を仕入れ、日本の歴史を大きく変えた関ヶ原の合戦の地へ。東軍の大将、徳川家康の陣地跡や西軍の総大将、石田三成が陣地を置いた笹尾山、合戦の戦死者をまつる東首塚や西首塚などを見てまわった。
慶長5年(1600年)9月15日。午前8時頃になると霧が晴れはじめ、それとともに東軍の井伊、松平隊が動き出し、西軍の島津隊に向かって攻撃を仕掛けようとした。それを見て、東軍の福島正則隊は西軍の宇喜多秀家隊を猛烈に攻めはじめた。こうして関ヶ原の合戦の火蓋は切られ、東軍の右翼に陣取っていた諸隊は一斉に西軍の石田三成隊や小西行長隊を攻めたてた。家康は後方の桃配山に陣を置いていたが、午前11時頃には関ヶ原の中央に陣を移して全軍の指揮を取った。
一進一退をつづけていた戦いは、正午過ぎになると西軍が有利になった。ところが南の松尾山に陣を張り、戦況を傍観していた小早川秀秋隊は突如、西軍を裏切った。それに追随して赤屋隊、小川隊、朽木隊、脇坂隊が反旗をひるがえした。そのため形勢は一気に逆転し、西軍の大谷隊、宇喜多隊、小西隊…は次々に敗れ去り、残るは石田隊と島津隊だけになってしまった。ついに石田隊も敗れ、島津隊は残った兵の200余名で家康の本陣に決死の突撃を試みた。しかし家康を討つことはできず、そのまま敵陣を突破して逃走し、午後3時には東軍の大勝利のうちに天下分け目の合戦は幕を閉じた。それはまた日本の戦国時代の終焉を告げるものであり、二百数十年にも及ぶ徳川時代の幕開けでもあった。
伊吹山地南端の関ヶ原は日本を二分する合戦のおこなわれた地だけあって、昔から東国と西国を分ける境目になっていた。この地には鈴鹿、愛発と並ぶ日本の「古代三関」の不破の関が置かれていた。関よりも東が東国ということになる。「不破関資料館」には当時の関の模型が展示されている。東国に向けては長い土塁が築かれているが、西国側は柵のみ。駐屯していた兵士たちの模型も展示されている。ここは関所というよりも、東国から都を守るための要塞だった。