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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[192]

投稿日:2014年11月27日

第1番札所へ向かう

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月16日

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「本能寺の変」の本能寺

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本能寺の山門

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本能寺の「信長公廟」

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錦小路を歩く

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四条河原町の交差点

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烏丸五条の交差点

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右手には東本願寺

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正面には京都駅

 2009年5月16日、京都を拠点にしての「西国33ヵ所めぐり」の開始だ。スズキの125ccスクーター、アドレスV125Gを走らせ、まずは「本能寺の変」の舞台の本能寺に行く。東海道と中山道の終点、三条大橋に近い。

 そこには次のように書かれた本能寺の案内板が立っている。

 法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415年)、日隆上人によって創建された。当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433年)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、さらに天文14年(1545年)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。本能寺は天正10年(1582年)、織田信長が明智光秀によって襲撃され、自刃したところとして名高いが、その折、30余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589年)、現在の地に移転再建されたが、江戸時代後期に天明・元治の大火によって堂宇は焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928年)に再建されたものである。

 天正10年(1582年)の「本能寺の変」は日本の歴史を大きく変えた出来事。本能寺の境内にある信長の廟に手を合わせ、信長を偲んだ。信長があと10年生きていたら…、今の日本はまったく違っていたかもしれない。

 次に錦小路へ。

 錦小路は京都の中心街を東西に走る四条通りの1本、北側の通り。アドレスを駐車場に止め、京都第一の繁華街、新京極から歩いていった。ここには京都の台所ともいえそうな錦市場がある。八百屋、魚屋、乾物屋、肉屋、漬物屋、総菜屋、天ぷら屋、蒲鉾屋、すし屋といった食料品店が、狭い通りの両側に140軒余りも並んでいる。京料理には欠かせない湯波や生麩をつくる店もある。

 魚屋では一夜干しやひと塩しただけのイワシ、サバ、アジ、ササガレイなどの半生の魚が目につく。これらの魚は日本海側の越前や若狭から入ってくる。京都は日本海と深く結びついた町なのだ。

 京都から途中峠を越えて敦賀に至る越前街道は「トト(魚)街道」、京都から周山を通って小浜に至る若狭街道は「サバ(鯖)街道」ともいわれる。このことからもわかるように、京都人にとって日本海に通じる街道は、海の幸をもたらしてくれる魚街道。日本海の浜でひと塩された魚は峠を越えるころには塩がなじみ、錦市場に並ぶころにはちょうどよい味になっている。

 八百屋の店先は色鮮やか。京都特産の野菜の多いのには驚かされる。キントキニンジンの透き通るような赤、丸い聖護院大根や淀大根の目にしみるような白、九条ネギの濃い緑…とじつにカラフル。野菜類はみずみずしく、水がしたたりおちんばかりに並べられている。京都には賀茂茄子や壬生菜、聖護院かぶらといったような地名のついた京都特有の野菜が何種類もある。

 八百屋で気がつくのはサトイモやエビイモ、ツクネイモ、クワイ、長老木と呼ばれるイモの根、ユリ根…と、イモや根菜の類が多いこと。ムカゴ飯などにするヤマイモの子のムカゴが山盛りにされている。それがいかにも京都らしかった。

 錦小路歩きを終えると、四条河原町の交差点から国道1号の五条通りに出、京都駅前へ。そこから「西国33番」の第1番札所、青岸渡寺に向かった。

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