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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[257]

投稿日:2015年4月14日

「忠臣蔵」の舞台

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月22日

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高取峠

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赤穂の町が見えてくる

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赤穂御崎

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赤穂御崎の大石内蔵助像

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赤穂大石神社の四十七士像

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赤穂大石神社の参道

 相生を出発。アドレスを走らせ、国道250号を行く。すぐにゆるやかな山中に入り、相生市と赤穂市の市境の高取峠を越える。標高100メートルという低い峠だが、歩いて峠を越えた時代には大きな難所になっていた。

 この高取峠は「忠臣蔵」の舞台で、峠には早駕籠のモニュメントが建っている。そこには次のような案内が書かれている。

元禄14年(1701年)3月19日の、午前4時頃、ここ高取峠を「エイホ、エイホ」の声とともに、2挺の早かごが赤穂城を目指して突っ走っていました。これは江戸城松之廊下で突発した赤穂城主浅野内匠頭の殿中刃傷を知らせる第一の使者、早水藤左ェ門と萱野三平の両士の姿でした。この早かごは江戸から155里(約600?)の長途を昼夜兼行で、わずか4日半で江戸の事件を家老の大石内蔵助に知らせ使命を果たしました。忠臣蔵で名高い元禄赤穂事件の赤穂でのはじまりは、ここからスタートしたといってもいいでしょう。

「忠臣蔵」幕開けの舞台の高取峠を越えて赤穂市に入ると、瀬戸内海に突き出た赤穂御崎に立つ。そこからは家島諸島の島々がよく見える。岬には「忠臣蔵」の大石内蔵助の像が建っている。つづいて赤穂の町に入り、まずは赤穂大石神社を参拝。参道には四十七士の像が建っているが、思わず、「え〜!」と声が出る。四十七士とは似ても似つかない中国の古代戦士のような像だからだ。この赤穂大石神社は大石内蔵助や赤穂浪士をまつっている。

 つづいて赤穂城跡を歩く。赤穂城の完成は寛文元年(1661年)。5層の天守閣が計画されたが、幕府への遠慮か財政難からか、天守台のみ造られて、天守閣は築かれなかった。築城の当初から場内に大石邸をはじめ藩の重臣の屋敷があった。浅野家断絶後は永井氏、森氏の居城となり、明治になって城は破壊された。赤穂義士自刃250年祭以降、大手門や大手隅櫓などが復元されている。内堀を渡り、本丸門から本丸跡に入ると、御殿跡や本丸庭園、天守台がある。

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赤穂大石神社を参拝 赤穂城跡の石垣 赤穂城跡を歩く

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