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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[267]

投稿日:2015年4月28日

おくの細道素龍清書本

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月24日

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敦賀から国道8号を南へ

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国道8号の福井・滋賀県境の峠

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峠の茶屋「孫兵衛」

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琵琶湖が見えてくる

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木之本のマクドナルドで朝食

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木之本の北国街道沿いの町並み

 越前・若狭国境の関峠から敦賀に戻ると、国道8号で福井・滋賀県境の峠に向かっていく。国道161号との分岐を過ぎ、長い上り坂を登っていくと県境の峠に到着だ。この峠に名前はついていない。旧国名でいえば越前・近江国境の峠になる。峠近くの旧道沿いには新道の集落があるので、「新道の峠」といわれることもある。

 県境の峠のわずかに手前、敦賀側から行くと、国道8号の右側に峠の茶屋「孫兵衛」がある。ここは新道の西村家がやっている店。ここはじつはすごい所。西村家というのは、国の重要文化財にもなっている「おくの細道素龍清書本」を所蔵している旧家なのだ。

 芭蕉は「奥の細道」の旅を終えると、5年もの歳月をかけて『おくのほそ道』を書き上げた。それは推敲に推敲を重ねたもので、芭蕉の晩年のすべてをかけた本といっていい。それを能書家の素龍に清書させたものが「素龍清書本」。芭蕉はその清書本を頭陀袋に入れ、伊賀上野にいる兄に贈った。間近に迫った死を予感し、最も世話になった兄に形見として贈ったものだが、それは元禄7年(1694年)の春のことだといわれている。その年の10月12日(陽暦の11月28日)、芭蕉は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の辞世の句を残し、大坂(大阪)で死んだ。51歳だった。『おくのほそ道』が京都の井筒屋庄兵衛によって出版されたのは、その8年後の元禄15年(1702年)のことになる。

「おくの細道素龍清書本」はその後、じつに数奇な運命をたどることになる。次々と所有者が変わり、そして最後に敦賀・新道の西村家の所蔵となった。文化元年(1804年)の頃だといわれている。「素龍清書本」が「西村本」といわれるのはそのためだ。

 西村家には何とも失礼なことなのだが、
「何で、よりによって…、ここなの?」
 といいたくなるような所に国宝級の文化財が残されている。

 残念ながら峠の茶屋「孫兵衛」はまだ閉まっていたが、この店の奥には「素龍清書本(複製版)」がガラスケースの中に入れられ、展示されている。

 それを目にしたときは、
「すごいものを見た!」
 というのが実感で、体が震えるような思いをしたことをおぼえている(原本は西村家の土蔵に保管されているという)。

 県境の名無し峠を越え、福井県から滋賀県に入る。峠を下っていくと琵琶湖が見えてくる。琵琶湖の湖岸を走り、豊臣秀吉と柴田勝家が壮絶な戦いをした賤ヶ岳の古戦場の下をトンネルで抜け、木之本に到着。ここは北国街道の宿場町。今でも旧街道沿いには古い家並みがそっくりそのまま残っている。

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