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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[286]

投稿日:2015年6月8日

近江商人のふるさと

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月26日

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白雲閣

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朝鮮人街道の碑

「近江八幡探訪」はつづく。日牟礼八幡宮の参拝を終えると「白雲館」へ。明治10年(1879年)に八幡東学校として建てられた洋風建築。近江商人の子供たちの教育の充実を図るために造られたもので、建築費の大半は寄付でまかなわれたという。近江商人の財力を物語るような話ではないか。明治24年(1891年)に校舎としての役割を終えると、それ以降は八幡町役場や蒲生郡役所としてつかわれた。

 そこに立つ「近江商人のふるさと」の案内板には次のように書かれている。

天正13年(1585年)豊臣秀次が八幡山頂に築城、本能寺の変で主なき城下町となった安土の町を移し、翌年、八幡山下町掟書を公布し、縦12通り、横4筋の区画整然とした城下町が誕生した。しかし開町から10年で廃城となるが、その後は商業都市として栄え、北は北海道、南は九州、遠くは東南アジアまで活躍した近江商人の一つのふるさとでもある。今なお、碁盤目状の町並みは旧市街によく残され、とくに新町や永原町には近江商人の本宅であった家々が建ち並び、八幡堀に面した土蔵群など、往時の在郷町としての繁栄をうかがい知ることができる。現在、伝統的建造物群保存地区の指定を受けたこの町並みは、未来の都市空間の中に継承すべき貴重な文化遺産であり、近江八幡の心のよりどころである。

 つづいて「朝鮮人街道」を歩いた。

 江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書を持って来日する「朝鮮通信使」は、役人のほかにも文人や学者など500人もの規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やしたという。行程はソウルから江戸まで約2000キロになるが、近江八幡を含む彦根から野洲にかけての一帯では、「朝鮮通信使」の通った京街道を朝鮮人街道と呼んでいる。近江八幡の北元町にある本願寺八幡別院では正使が、京街道沿いの一帯では随員たちが、昼食場所や休憩場所として使った。当時の近江八幡の町人たちは、町を上げて朝鮮通信使を歓迎し、文化交流が盛んにおこなわれたという。

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