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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[313]

投稿日:2015年8月8日

今須宿から関ヶ原宿へ

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月29日

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今須宿

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今須峠

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東海道本線の踏切

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不破の関跡碑

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不破関資料館

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関ヶ原宿

 中山道の美濃路の宿場めぐりが始まる。その第1番目は今須宿。ここには本陣が1軒、脇本陣が2軒あったとのことだが、関ヶ原の合戦の翌日、徳川家康は佐和山城攻めに際し、本陣伊藤家の庭先の石に腰かけて休息したという。その石は現在、関ヶ原の青坂神社の境内に、「東照宮大権現腰掛石」として保存展示されている。

 今須宿からは今須峠を越え、関ヶ原宿へ。JR東海道本線の踏切を渡り、鈴鹿、愛発と並ぶ日本の「古代三関」のひとつ、不破の関跡では「不破関資料館」(入館料100円)を見学。復元された関の模型を見ると、関所というよりもまるで砦のようだ。東国に向けては土塁が築かれ、防備を固めているが、西国側は柵のみ。不破関駐屯の兵士の模型像もある。ここは壬申の乱(672年)の激戦地。その資料も展示されている。藤古川左岸の段丘上で天智天皇の子の大友皇子の軍勢と天智天皇の実弟の大海人皇子の軍勢が、皇位継承をめぐって1ヵ月あまりに渡って戦った。その結果、大友皇子は自害し、大海人皇子が翌年即位し、天武天皇になった。

 関ヶ原宿からは関ヶ原の古戦場に行く。そこに立つ案内板には「関ヶ原合戦」のあらましが、次のように書かれている。

 慶長5年(1600年)9月15日(現在の暦では10月21日)、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍がここ関ヶ原盆地で激突した。豊臣秀吉亡き後、自らの時代を開こうとした徳川家康は、同年6月会津上杉攻めを口実に大坂を離れ、三成の挙兵を誘い込んだ。8月会津攻めから引き返した家康は、9月1日に江戸を発ち、14日には美濃国赤坂に陣を張った。この間、家康は豊臣政権内の諸将の反目や政治的な矛盾をうまく利用し、豊臣恩顧の武将の多くを東軍に引き入れた。一方、豊臣家への義を重んじた三成は8月下旬から大垣城に立てこもっていたが、急遽14日の夜に大垣城を出て翌早朝には関ヶ原に布陣し、本陣をここ笹尾山に置いた。一方東軍も西軍の動きに呼応し、午前7時頃に家康は関ヶ原の桃配山に陣取った。

 午前8時、東軍の先鋒福島正則隊を出し抜いた井伊直正隊が発砲し、決戦の火ぶたは切られた。地形を利用して東軍を誘い込み、包囲攻撃の陣形をとった西軍が有利な様相だったが、一進一退の攻防が続いた。しかし、かねて家康と通じていた松尾山の小早川秀秋が一向に反応しないことに業を煮やした家康が、小早川の陣に向けて鉄砲を撃たせると、小早川は味方の大谷吉継隊を襲い、吉継は自刃。ここに形成は大きく逆転した。

 正午過ぎ家康は総攻撃を命じ、小西行長隊、宇喜多秀家隊と崩れ、頑強だった石田隊も敗走をはじめた。桃配山の家康本陣背後の南宮山の毛利隊も、家康に内応した吉川広家に阻まれ、最後まで参戦することなく陣を引いた。最後に残った西軍の島津義弘隊は、正面から敵中突破を敢行し、多良方面へ去り、家康の追撃中止命令が下った。時に午後2時半のことであった。

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関ヶ原の古戦場 関ヶ原の水田 関ヶ原の古戦場碑

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