カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[317]

投稿日:2015年8月15日

美江寺宿から加納宿へ

西国三十三ヵ所めぐり 2009年5月29日

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河渡宿の一里塚跡碑

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加納宿に入っていく

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加納城跡

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加納城跡に残る石垣

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「東横イン名鉄岐阜」

 美江寺宿から河渡宿へ。長良川西岸の河渡宿はその名の通り、長良川の渡しを東に臨む宿場。一里塚跡碑のあたりが、かつての河渡宿の中心。現在は長良川に橋がかかっているが、昔は表街道の「河渡の渡し」か、裏街道の「小紅の渡し」で長良川を渡った。そのうち小紅の渡しは今でも健在。櫓でこぐ手漕ぎ舟の渡しで無料だ。

 河渡宿から河渡橋で長良川を渡り、岐阜の市街地に入っていく。JR東海道本線の岐阜駅の南側が加納宿。ここは城下町でもあり、「美濃十六宿」の中では最大の宿場になっていた。

 関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601年)、徳川家康は娘婿の奥平信昌を10万石の加納城主にした。加納城の築城は関ヶ原の合戦後では初となるもので、本丸、二の丸、三の丸を備えた堂々とした城だった。加納城主は奥平氏のあとは大久保氏、戸田氏、安藤氏と変わりながら十六代目の城主で明治維新を迎えた。そんな加納城だが、今では本丸跡とわずかな石垣が残るのみ。本丸跡の園地は市民の憩いの場になっている。

 国の史跡にもなっている加納城跡を歩く。わずかに残る石垣がかつての加納城を偲ばせる。本丸跡に立つ案内板には次のように書かれている。

 徳川家康は慶長6年(1601年)、娘婿の奥平信昌を加納城主として10万石を与え、また亀姫の粧田として2000石を給した。築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築した。本丸、二の丸、三の丸、厩曲家、南曲家(大藪曲家)などを備え、関ヶ原戦後では初の本格的な城郭であった。加納城歴代の城主は奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し、最後の永井氏の時代に明治維新を迎えた。明治2年、加納城第16代城主の永井肥前守尚服が版籍を奉還し、加納藩は同年7月14日に廃藩に至った。加納城跡は、この本丸のほかには二の丸北側に石垣をわずかに残している。

 加納城を歩いたあとは、「中山道往路編」の時と同じ「東横イン名鉄岐阜」に泊り、名鉄岐阜駅前から夜の岐阜の町を歩き始めた。しばらく歩いたところで、焼き鳥屋に入り、ビールを飲みながら焼き鳥を5本食べた。そのあとラーメン専門の「一兆家」で「ゆず塩ラーメン」を食べるのだった。

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名鉄岐阜駅 焼き鳥でビールを飲む 「一兆屋」の「ゆず塩ラーメン」

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