カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

V-Strom1000で行く日本[45]

投稿日:2016年1月8日

東西の境目を考えた

2015年9月23日(東京〜鹿児島)

 敦賀を出発。V−ストローム1000を走らせ、敦賀湾沿いの国道8号を行く。対岸には敦賀半島が見える。海岸線を離れると、武生トンネルを抜け、武生(越前市)、鯖江、福井と通り、牛ノ谷峠を越えて石川県に入る。大聖寺(加賀市)、小松と通り、金沢では金沢城を見た。

 金沢からは国道8号の旧道で石川・富山県境の天田峠へ。そこから稜線上の道で倶利伽羅峠まで行き、峠の展望台に立った。そこからは加賀側のゆるやかな山並みを一望する。そんな峠からの風景を眺めながら日本の東西の境目を考えた。

 日本海側で一番、はっきりとしている東西の境は北アルプスの断崖が海に落ちる親不知だ。親不知を境にして越後側はより東日本的になり、越中側はより西日本的になる。たとえば親不知を境に越後側では正月魚といったらサケだし、越中側はブリになる。

 その越中でも神通川の左岸に長々と横たわる呉羽丘陵を境にして西側の呉西は西日本的だが、東側の呉東は東日本的だといわれる。そしてこの倶利伽羅峠だ。倶利伽羅峠の西側の加賀はもう完全に西日本の世界だが、峠の東側の越中になると、東日本の色彩をかすかにとどめている。このように日本の東西文化の境目を見ていくのはきわめておもしろい。

 富山・石川県境の倶利伽羅峠では成田不動(千葉)、大山不動(神奈川)と並ぶ「日本三大不動」の倶利伽羅不動を参拝する。倶利伽羅峠の峠名はこの倶利伽羅不動から来ている。おもしろいのはその入口。手向神社の鳥居をくぐって倶利伽羅不動の境内に入っていく。かつての神仏混淆の色彩を濃く残している倶利伽羅不動だ。手向神社も興味深い。「手向」で「とうげ」と読む。つまりは「とうげ神社」になる。出羽の羽黒山の手向集落も「とうげ」だが、「手向」は峠の語源のひとつだといわれている。それを目で見ることのできる倶利伽羅峠なのだ。

 倶利伽羅峠といえば源平の古戦場跡。峠には源平倶利伽羅合戦碑と五輪塔の源平供養碑が建っている。平安時代末期の寿永2年(1183年)、木曽義仲が率いる源氏軍と平維盛が率いる平家軍の大軍がこの地で激突。平家軍が寝静まった夜間に義仲軍は仕掛け、倶利伽羅峠の断崖から平家の大軍を追い落とした。平家は10万もの大軍を失った。『源平盛衰記』では義仲は数百頭の牛の角に松明をつけて放ったとあるが、それが伝説の「火牛攻め」。この戦いで大勝した木曽義仲は京に向けて進軍し、ついに上洛。大軍を失った平家は防ぎようもなく、安徳天皇を伴って西国へと落ち延びた。

 倶利伽羅峠から天田峠に戻ると、富山県側を下っていく。

 峠下の石動(小矢部市)では、JR北陸本線の石動駅前でV−ストローム1000を止めた。ここは我が故郷といってもいいようなところ。母方の祖母の生まれ育った町なのだ。小さい頃、一度だけ母に連れられて石動に来たことがある。東京・上野駅から蒸気機関車に乗り、石動駅で降りたのだが、顔は煤で真っ黒。春先のことで雪の消えた田圃には一面、レンゲの花が咲いていた。小矢部川にかかる鉄橋がぼくの大のお気に入りポイント。そこで北陸本線の列車を眺めた。鉄道貨物が全盛の時代で、50余両編成の長い貨物列車を「1、2、3…」と数えたシーンが60年以上たった今でもはっきりと目に残っている。小矢部川の鉄橋では列車を見るだけでは我慢できずに歩いて渡った。大目玉をくらったが、もしあのとき列車が来ていたら、哀れにもカソリ、4歳か5歳で人生の幕を下ろしていた。

 石動駅の食堂で「天ぷらうどん」(460円)を食べ、高岡から富山へ。

 富山は国道8号のバイパスで走り抜け、魚津、黒部、入善と通り、境川を渡って新潟県に入った。

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▲福井の国道8号を行く

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▲加賀百万石の金沢城

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▲国道8号の旧道で天田峠へ

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▲石川・富山県境の天田峠

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▲倶利伽羅峠の倶利伽羅不動を参拝

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▲倶利伽羅峠の「火牛攻め」の像

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▲JR石動駅前に到着

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▲石動駅の食堂で食べた「天ぷらうどん」

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▲国道8号のバイパスで富山を通過

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▲魚津駅前

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▲富山・新潟県境を流れる境川

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