V-Strom1000で行く日本[59]
投稿日:2016年1月30日
左膝に激痛が走る
10月8日。青森駅前の「東横イン」で目覚めたときは、ちょっとショック。左足の痛みでほとんど歩けない状態。前夜、寝るまでは何でもなかったのだが。別にバイクで転倒したり、何かにぶつけたのではないのだが、頭の芯にキリキリと突き刺さってくるような痛みを感じる。これは2年半前の事故で痛めた左膝の影響なのだ。
事故は次のようなものだった。
「東日本大震災」から2年後の2013年の3月11日、6度目となる「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発した。鵜ノ子岬(福島・茨城)は東北太平洋岸最南端の岬、尻屋崎(青森)は東北太平洋岸最北端の岬だ。
いつものように厚木ICから東名に入り、首都高を経由し、常磐道の三郷料金所へ。その途中で事故は起きた。小菅JCTを過ぎてまもない直線路でのことだ。右側の車線を愛車のDR−Z400Sで走っていると、突如、左側の車線を走っていたトラックがウインカーも出さずに車線を変えた。おそらくバックミラーの死角に入って見えなかったのだろうが、トラックに激突するのを避けるので精いっぱい。パニックブレーキをかけて右へ、急ハンドルを切っり、45度ぐらいの角度で側壁にぶつけた。その衝撃で今度は左45度ぐらいの角度で吹っ飛び、路面にたたきつけられた。
助かったのは後続のトラックのおかげ。よくぞ後続車が止まってくれたものだ。トラックの運転手は駆け寄り、「おい、大丈夫か」と声をかけてくれ、一緒になってDRを起こしてくれた。このあたりはオフ車の頑強さというもので、ハンドルはグニャリと曲がり、ヘッドライトのカバー類が割れたが、しっかりとエンジンはかかった。「すぐに救急車を呼ぶから」といってくれたトラックの運転手に「大丈夫、走れます」といって、そのままDRに乗って走り出した。曲がったハンドルでも慣れてくると、けっこう走れるものだ。 事故の原因となったトラックは知ってか知らずか、そのまま走り去っていった。
辛いのは眼だ。頭を強打したが、アライのヘルメットのおかげで助かった。だがシールドが割れて飛んだので裸眼で走らなくてはならない。花粉症でヒーヒーいってるのに、よけいにひどくなった。
そのまま常磐道に入り、北へと走る。全身強打でズキズキ痛む。それをこらえてハンドルの曲がったDRに乗りつづけ、友部SAで朝食。「たまり醤油ラーメン」(650円)を食べて、すこしは元気が出た。
我が家から230キロを走って北茨城ICに到着。国道6号で大津漁港へ。岸壁は震災で崩れたり、陥没したままだが、やっと復興の兆しが見えていた。漁港の一角では「市場食堂」が営業を再開し、市場食堂の隣の「よう・そろー」の物産館はまもなくリニューアルオープンするという。残念ながら「北茨城市漁業歴史資料館」の方は、まだしばらくは閉館がつづくようだった。
大津漁港からは小半島をぐるりと一周。南端の岬、鵜島ノ鼻を通り、大津岬灯台を見る。大震災で被災したが、震災1年後には新しい灯台が完成した。灯台の下には水仙の花が咲いていた。五浦岬では駐車場にDRを止め、足を引きずりながら岬まで歩いた。そこからは海越しに、やはり震災1年後に再建された「六角堂」を見た。
「北茨城探訪」の最後は平潟漁港。鵜ノ子岬の南側で、ここが関東最北の漁港であり、関東の太平洋岸最北の地になる。大地震で鵜ノ子岬突端の岩山は崩れ、大岩が散乱していたが、それがきれいに取り除かれていた。アンコウ漁で知られる平潟漁港も大きな被害を受けたが、漁港の岸壁のかさ上げ工事が行なわれていた。大震災2年目にしてやっと動き出したという感じだった。
北茨城の平潟漁港からは国道6号で福島県に入る。関東から東北に入ったのだ。すぐに国道6号を右折し、勿来漁港でDRを止めた。鵜ノ子岬北側の勿来漁港は東北太平洋岸最南の漁港になる。テトラポットで守られている堤防の上に立ち、岩山が海に落ち込む鵜ノ子岬を眺めた。岩肌にはくっきりと大津波の痕跡が残されている。ポッカリと開いた海食洞の大穴からは、鵜ノ子岬南側の平潟漁港が見えた。
ひと晩、鵜ノ子岬に近いいわき市の白米鉱泉「つるの湯」に泊まり、翌3月10日、約束の10時に常磐道のいわき湯本ICに行った。『U400』の取材で編集の谷田貝さん、カメラマンの武田さんと落ち合った。2人は足をひきずりながら歩くぼくの姿を見て心配してくれたが、「大丈夫」を連発して、取材用の車両、スズキのビッグボーイに乗っていわき市内の林道を走りまくったのだ。
ほんとうにラッキーなことだったが、『U400』の取材を終えると、そのままビッグボーイを貸してもらえることになった。DRは編集部のトランポに積んで東京まで運んでもらえることになった。裸眼で走るのはもうこれ以上は無理なので、薬屋で花粉症用の眼鏡を買って青森を目指した。それから9日後の3月19日、「鵜ノ子岬→尻屋崎」を往復して何事もなかったような顔をして東京に戻った。
この首都高の事故では全身を強打したので、体中が痛んだ。だが日数がたつにつれて痛みは薄れたが、左膝を一番、強打したようで、それ以降、左膝の痛みには悩まされつづけている。きっと左膝をかばうような歩き方をしているからなのだろう、この日の青森のように訳もなく左足が痛むようなことが何度もあった。こうなるともう、嵐のような激痛に何日か、耐えるしかないのだ。
「さー、行くぞ!」と意を決して起き上がる。
朝食を食べ、7時、「東横イン」を出発。V−ストローム1000のエンジンをかけ、青森駅前から青森県庁前の国道7号終点の地へ。そこは国道4号の終点でもある。そのまま直進し、青森から東京へと、国道4号の全線を走るのだ。