アドレス日本巡礼[337]
投稿日:2016年4月11日
姫の宿
西国三十三ヵ所めぐり 2009年6月3日
6月3日。新幹線の佐久平駅前(浅間口)の「東横イン」の朝食を食べ、8時出発。前日につづいて岩村田宿を走り、次の小田井宿へ。ここには往時の中山道の風情がよく残っている。東の桝形から小田井宿に入り、昔の姿を今にとどめる本陣や上問屋、脇本陣跡、下問屋と見てまわり、西の桝形で小田井宿を出た。小田井宿はまるで時の流れから取り残されたかのようにして残った宿場。宿場内を用水が音をたてて流れている。
東の桝形に立つ案内板には、小田井宿について次のように書かれている。
小田井宿は天正年間(1573〜92年)に誕生し、慶長(1596〜1615年)以降、中山道の宿駅として整えられました。昭和に入ってからの数度の工事で、道の中央を流れていた用水路は南側に移されましたが、東・西の入口にあった桝形はその形を留め、上の駅、下の駅には茶屋などの小商売が多く、中の駅にあった本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。文久元年(1861年)の皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休憩や宿泊に利用され、「姫の宿」とも称されました。街道の繁栄期であった文化・文政期には、文政5年(1822年)で199戸、人口524人を数えていますが、他の時代では小規模の伝馬に生きた宿場だったようです。宿場の町並みは寛延元年(1748年)で7町23間(約805m)ありました。皇女和宮より拝領された人形が残され、それにちなんで8月16日には「小田井宿祭り」が行われています。
また旧本陣の安川家住宅の前に立つ案内板には次のように書かれている。
安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣をつとめた。現在でも、その本陣の客室部を良好な状態で残している。客室部は切妻造で、その式台、広間、三の間、二の間、上段の間、入側などは原形をよく留めており、安川家文書では宝暦6年(1756年)に大規模な改築が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられている。また湯殿と厠は文久元年(1861年)の和宮降嫁の際に改修されたものであろう。厠は大用所、小用所ともに2畳の畳敷きになっている。
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