カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[356]

投稿日:2016年5月17日

おくのほそ道ゆかりの寺

坂東三十三ヵ所めぐり 2009年6月13日

雲厳寺の橋を渡る

雲厳寺の橋を渡る

雲厳寺を流れる清流

雲厳寺を流れる清流

雲厳寺の山門

雲厳寺の山門

雲厳寺の本堂

雲厳寺の本堂

八溝山へと登っていく

八溝山へと登っていく

三県境の3本の木

三県境の3本の木

八溝山頂の展望台

八溝山頂の展望台

八溝山の八溝嶺神社

八溝山の八溝嶺神社

第21番日輪寺の本堂

第21番日輪寺の本堂

第21番日輪寺の巡礼者

第21番日輪寺の巡礼者

山方の「まるしん」

山方の「まるしん」

「まるしん」の「あゆ定食」

「まるしん」の「あゆ定食」

「坂東三十三ヵ所」第20番の札所、益子観音の参拝を終えると、国道294号で黒羽へ、黒羽からは「奥の細道」の雲厳寺に行く。臨済宗妙心寺派の名刹で山中にある。八溝山から流れてくる清流を赤い橋で渡り、大きな山門をくぐり、本堂へ。雲厳寺は全山、深い緑に覆われていた。

 雲厳寺の境内には芭蕉の句と仏頂和尚の歌を刻み込んだ碑が建っている。仏頂和尚は鹿島の根本寺の住職だった。鹿島神宮に寺領を奪われ、それを取り戻すために訴訟を起こした。その間、江戸の深川に住んでいたことから芭蕉とのつながりができたという。仏頂和尚は9年間の闘いののち勝訴し、寺領を取り戻した。芭蕉は正義を貫き通したその信念におおいに心をひかれたようだ。仏頂和尚は勝訴の後はすぐに住職をやめ、雲厳寺の草庵で修行者として仏道を歩んだ。芭蕉は参禅の師でもあった仏頂和尚の山居跡はどうしても見たかったのだ。

 当国雲厳寺の奥に仏頂和尚山居の跡あり。
  縦横五尺にたらぬ草の庵
  結ぶもくやし雨なかりせば
 と、松の炭して岩に書き付けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。その跡見んと、雲厳寺に杖を曳けば、人々進んでともにいざなひ、若き人多く道のほどうち騒ぎて、おぼえずかの麓に到る。山は奥ある気色にて、谷道遥かに、松・杉黒く、苔しただりて、卯月の天今なほ寒し。十景尽くる所、橋を渡って山門に入る。
 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢ登れば、石上の小庵、岩窟に結び掛けたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。

  木啄も 庵は破らず 夏木立

 と、とりあえぬ一句を柱に残しはべりし。(『おくのほそ道』)

 雲厳寺を見てまわったところで、雲厳寺の前の道を行き、八溝山へと登っていく。125ccとは思えないほどパワフルなエンジンのアドレスなので、楽々と登れる。稜線上に出ると那須連峰、日光連山の山並みが眺められた。栃木・茨城・福島の三県境に到達。そこにはそれぞれの県木、栃木の栃、茨城の梅、福島の欅が植えられている。

 三県境を過ぎ、標高1022メートルの八溝山の山頂へ。山頂直下までバイクで行ける。そして城を模した山頂の展望台に登った。そこからは富士山が見えるとのことだが、残念ながら霞んでいた。展望台を降りると、山頂の八溝嶺神社を参拝。日本武尊をまつっている。八溝山の山頂は茨城・福島の県境になる。

 八溝山では八溝湧水群の名水「金性水」を飲んだあと、山頂からわずかに下ったところにある日輪寺を参拝。十一面観音がまつられている。ここが「坂東三十三ヵ所」第21番の札所になる。白装束を着た巡礼者たちがが参拝していた。

 日輪寺は坂東三十三ヵ所の中でも最も山深いところにある。それだけに「坂東の八溝知らず」とか「八溝知らずの偽坂東」といわれている。坂東三十三ヵ所めぐりで日輪寺だけを巡らなかったり、山麓からの遥拝で済ませてしまうことが多いからだ。

 八溝山を下ると、大子からは国道118号を南下。山方の国道沿いの店「まるしん」で「あゆ定食」(1000円)を食べた。久慈川で獲れたアユが2匹、皿にのっている。炭火で焼いたというアユの塩焼きは超美味だった。

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