アドレス日本巡礼(番外編)[379]
投稿日:2016年7月4日
観音信仰の聖地「ポタラ宮」
2009年7月10日、敦煌を出発。青海省の高原地帯からチベットの高原地帯に向かっていく。砂丘地帯を走り抜け、まずは標高3648メートルの当金峠を越える。アルチン山脈の峠だ。敦煌から342キロのターザイタンに到着。ここで泊まる予定だったが、情勢が不穏で、急遽予定を変更。軍がこの町の周辺に集結し、軍事演習をしているとのことで、泊まれなくなってしまったのだ。さらに200キロほど南下し、ゴルムドまで行く。ゴルムド到着は21時30分。チベットへの鉄道、青蔵鉄路の起点となるゴルムド駅の駅前ホテルに泊まった。敦煌の標高は1250メートルだが、ゴルムドは2874メートル。もうすでにかなり高い。
ゴルムドは青海省の交通の要衝。省都の西寧から蘭州へと鉄道が通じているし、西寧への国道と敦煌への国道がここで交差している。南へは国道、鉄道ともにチベットに通じている。チベットへの鉄道は日本人にも人気の「青蔵鉄路」。国道は109号で「青蔵公路」と呼ばれている。この国道109号は北京が起点で銀川→蘭州→西寧と通り、チベットのラサが終点になっている。ゴルムドはモンゴル語で「川がいっぱいある」の意味だという。人口は14万人。夜明けとともに、そんなゴルムドの町を歩いた。といっても時間は6時半。中国の時間はあれだけ広大な国にもかかわらず、北京時間しかない。そのため西に行くにつれて日の出の時間はどんどんと遅くなる。
ゴルムドを出発。青蔵公路の国道109号を南へ。崑崙山脈に向かってどんどんと高度を上げ、標高3000メートルの世界に入っていく。やがて崑崙山脈の山中に入る。我が憧れの「崑崙」。山々には一木一草もない。青蔵公路に沿って青蔵鉄路が走っている。長い編成の貨物列車が通り過ぎていく。チベットのラサに向かう貨物列車は軍用車両を満載にしていた。さらに高度を上げ、標高4000メートルの世界に突入。バイクで切る風は冷たい。ポツポツ雨が降ってきたが、何とも冷たい雨だ。16時、ゴルムドから128キロの西大灘に到着。今晩はここで泊まる。
西大灘の標高は4131メートル。目の前には崑崙山脈の雪山が連なっている。山頂周辺は雲の中。最高峰は標高6718メートルの玉珠峰。3本の氷河が流れ落ちているが、それらを総称して「現代氷河」と呼ばれている。3本の氷河は今でも発達しつづけているという。現代氷河に向かって歩いたが、標高4000メートルの世界は寒く、息苦しい。荒野には可憐なエーデルワイスの花が咲いている。青蔵鉄道の線路を通り過ぎ、崑崙の山々から流れ出る川越しに現代氷河を眺め、そこから宿に戻った。夕食は砂鍋と麺。デザートにはハミウリが出た。
翌朝は6時、夜明け。昨日にひきつづいて崑崙山脈の現代氷河に向かって歩いた。北京発ラサ行きの列車が通り過ぎていく。7時、日の出。8時、朝食。朝食を食べ終わるころにはきれいな青空が広がり、標高6718メートルの玉珠峰を主峰とする連山がよく見えた。9時、西大灘を出発。崑崙山脈の雪山を見ながら走り、標高4767メートルの崑崙峠に到達。峠上でメンバーのみなさんと記念撮影。峠を下った五道梁で昼食。麺&饅頭。崑崙峠にひきつづいて標高5010メートルの風火峠を越える。この5000メートル級の峠を越えると、世界の大河、揚子江の源流地帯に入っていく。揚子江最上流部のダダ河にかかるダダ河大橋を渡るとダダの町だ。
ダダでは「長江源賓館」に泊まった。いかにも揚子江(長江)源流地帯らしい宿の名前。さっそく小さな町をひと回りする。ダダ河大橋を再度渡ったが、この橋は全長6380キロの揚子江、最初の橋ということになっている。しかし厳密にいうとさらにその上流には国道109号旧道の橋と青蔵鉄道の橋がかかっている。揚子江はダダ河→通天河→金沙江となって四川盆地に流れ下っていく。その源は青海省とチベット自治区の境近くのグラダンドン山だ。
夕食は目抜き通りに面した「清真食堂」で。この「清真食堂」というのは、イスラム教徒用の食堂で、豚肉料理は一切、出ない。ということで、夕食には羊肉を食べた。蒸餃子の肉も羊肉だ。ダダの標高は4600メートル。前夜の西大灘は標高4131メートルで大丈夫だったが、ここダダでは高山病にやられた。頭がズッキンズッキン痛み、息苦しくなってくる。夜が地獄。横になって寝付くと、苦しくてパカーッと飛び起きてしまう。ひと晩中、寝られず、ロビーのソファーに座っていた。横になるよりも座っている方がはるかに楽なのだ。
翌朝は食堂で水餃子を食べたが、気持ち悪くてほとんど喉を通らない。ダダを出ると通天河を渡る。この川もダダ河同様、揚子江の最上流部。ダダ河と合流し、青海省の高原地帯を流れ、四川省に入ると金沙江となって四川盆地に流れ下っていく。
標高5231メートルのタングラー峠に到着。寒い。テント張りの茶屋に入り、ヤクの糞を燃やすストーブにあたりながら、チベット特有のバター茶を飲んだ。この峠が青海省とチベット自治区の境。峠を越えてチベットに入り、さらにもうひとつの5000メートル級の峠を越え、安多の町に下った。峠を下ったといっても、安多の標高は4685メートル。安多からさらに南へ。19時30分、ダダから416キロの那曲(ナチェ)に到着。町の中心の「那曲飯店」で泊まった。那曲の標高は4511メートル。ダダでやられた高山病はかなりひどく、レストランでの夕食もほとんど食べられない。息苦しいだけでなく、食事もできないのが辛い。夜もダダ同様、ひと晩中、ほとんど寝られなかった。
翌朝は8時、朝食。紅豆腐を入れたお粥をわずかに食べられた。9時、出発。ラサへ。その途中では五体投地しながらラサに向かう一団と出あった。まだ若い男女。チベット東部の昌都(チャムド)を出発し、ここまで4ヵ月かかったという。さらにラサまでもう1ヵ月。5ヵ月をかけての巡礼の旅だという。1生に1度、人生をかけての大修行だ。13時30分、当雄で昼食。当雄を出ると、ニェンチャンタングラ山脈の山々が見えてくる。青空を背にした標高7162メートルのニェンチャンタングラ峰の雪の白さがまぶしかった。18時、ラサに到着。西安から3613キロ。ラサの標高は3650メートル。富士山と同じくらいの高さだが、5000メートルの峠を越えてやってくると、まるで低地に降りたかのようで、思わず「空気が濃ゆ〜い!!!」と歓声をあげた。
ラサに到着して、あまりの空気の濃さに驚かされたが、そのおかげで高山病はすっかり良くなった。「崗堅ラサ飯店」に泊まると、さっそく町に出た。チベット人居住区への入口は武警(武装警察)が銃を構えて厳重に警戒しているが、ラサの町は平穏を保っていた。7月5日の新疆ウイグル自治区のウルムチでの暴動で多数の死傷者が出たが、中国政府は暴動がチベット自治区に飛び火するのを最も恐れていた。こうした武警による厳重な警戒、さらにはすさまじいほどの軍の集結によって、力でもっておさえようとしているのが見てとれた。夕食を食べたあとは、今度は夜の町を歩く。町中は武警の警備こそ厳重だが、どこでも自由に歩けた。
今日は一日、ラサに滞在。夜明けとともに起き、6時30分、町歩きを開始。目抜き通りの北京西路、中路、東路と歩き、ポタラ宮へ。早朝のポタラ宮前では大勢のチベット人たちが祈っていた。油條と饅頭の朝食を食べたあとは大昭寺へ。この寺を中心にして、大勢の人たちが右回りでまわっている。大昭寺前の広場に面した食堂で昼食を食べ、午後は小昭寺へ。夕食は日本食レストランでカツ丼(20元)を食べた。それとダイコンおろしとつけもの、味噌汁。ちょっと日本の味とは違うチベット風の日本料理だったが、久しぶりの日本の味に元気が出た。
ラサ滞在の2日目はメンバー全員でポタラ宮へ。登りがきついので、ヒーヒーハーハーいってしまう。四天王の壁画を見、弥勒菩薩像を見、十一面千手観音像を見る。ポタラ宮は観音信仰の聖地。この十一面観音像が本尊的な存在で、十一面千手観音像に手を合わせながら、我が「百観音霊場めぐり」にピリオドを打つのだった。
「これにて終了!」
といった気分だ。
日本の観音霊場はチベットと強く結ばれているとポタラ宮で実感するのだった。
つづいて大昭寺を見学。ここにも十一面千手観音像がまつられている。
ラサ滞在の3日目は夜明けとともに起き、町歩きを開始。ラサで一番、心をひかれたのは大昭寺だったので、大昭寺前の広場に行く。そして大昭寺に参拝する。すでに多くの人たちが参拝にやってきている。チベット人にとってラサは聖地だが、その中でも大昭寺は一番の聖地といっていい。チベット仏教ゲルグ派の本山になっている。次に大昭寺のまわりの環状巡礼路(八角街)を歩く。時計回りにまわって、一周40分ほど。これを1日2回、朝夕にする人が多い。道の両側にはズラリと露店が並んでいるが、この時間だとほとんどの店はまだ閉まっている。大昭寺に戻ると、参拝する人たちの数はぐっと増え、多くの人たちが五体投地をしている。チベット各地から五体投地しながら何ヵ月もかけて、ここまでやってきた人たちもたくさんいる。そんな人たちの姿を見ていると、「四国八十八ヵ所めぐり」や「百観音霊場めぐり」で出会ったお遍路さんたちが目に浮かんでくるのだった。(了)