カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥の細道紀行[4]

投稿日:2016年7月20日

旅の第一夜

埼玉県草加市/2009年

 日光街道の千住宿をあとにし、スズキST250を走らせ、日光街道の国道4号を北上する。ところで日光街道だが、宇都宮宿までは奥州街道と同じルートになる。つまり「江戸五街道」のうちの日光街道と奥州街道という2大街道の重複区間ということになる。宇都宮宿で奥州街道と分かれた日光街道は、野沢宿→徳次郎宿→大沢宿→今市宿を経て、東照宮のある日光宿に通じている。芭蕉も奥州街道で白河に行く前に日光を目指す。

 さて千住から国道4号を一直線に北に走っていくと、環七の陸橋の下を通り、竹ノ塚、保木間を通り、草加バイパスと国道4号旧道との分岐に出る。そこを右へ。国道4号の旧道を行き、毛長橋にかかる水神橋を渡ると埼玉県だ。じきに草加の中心街に入っていく。平行して走る東武伊勢崎線の草加駅近くを過ぎると、日光街道の松並木が右側に見えてくる。

 草加といえば「草加せんべい」で有名。国道4号の旧道(県道49号)沿いには何軒かの「草加せんべい」の看板を掲げた店を見る。

 草加は天明4年(1784年)と明治3年(1870年)の2度の大火で燃え尽き、宿場町としての面影は残っていないが、宿場の北外れから2キロほど延びる松並木には日光街道を強く感じさせるものがある。綾瀬川沿いには「札場河岸公園」。そこには芭蕉像が建ち、大火に見舞われた町らしく、大きな望楼が建っている。「草加宿」の案内板には次のように、草加の由来が書かれている。

当時の日光道中の千住と越谷の間は沼が多く、大きく迂回して通らなければなりませんでした。そこで宿篠葉村(現松江)の大川図書という人物が村民と共に、茅野を開き、沼を埋め立て、それまで大きく迂回していた日光街道をまっすぐにする新道を開いたといわれています。慶長11年(1606年)のことです。この時、沼地の造成に沢山の草が用いられたことから草加と呼ばれるようになったそうです。

 何ともおもしろい「草加」の由来。なお松江は東京都江戸川区の荒川沿いの松江である。ST250を停め、草加の松並木を歩く。道路をまたぐ2本の木橋は風情のある造り。矢立橋、百代橋と「奥の細道」にちなんだ橋名がつけられている。そんな松並木には「松尾芭蕉文学碑」も建っている。この松並木には600本以上もの松の木があるという。草加市民にとっての絶好の散歩コースになっている。

 ことし、元禄二年にや、奥羽長途の行脚ただかりそめに思い立ちて、呉天に白髪の憾みを重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加という宿にたどり着きにけり。痩骨の肩にかかる物、まづ苦しむ。ただ身すがらにと出て立ちはべるを、紙子一衣は夜の防ぎ、浴衣・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがにうち捨てがたくて、路次の煩ひとなれるこそわりなけれ。

『おくのほそ道』

 草加の松並木にある「松尾芭蕉文学碑」にも彫り刻まれている『おくのほそ道』の一節だが、これを見てもわかるように、草加宿は「奥の細道紀行」での第一泊目の宿泊地になった。長旅での第一夜目というのは、きわめて重要なもので、ひときわ心に残る。

 ところが実際には曽良の「随行日記」に「廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。」とあるように、草加宿よりも先の粕壁宿(春日部)に泊まったのだ。

 しかし「奥の細道」を旅する我々にとっては、草加宿が第一夜目の宿泊地ということでいいのだと思う。草加宿は昔も今も、「奥の細道」の第一宿目ということでよく知られている。

日光街道で埼玉県に入る

▲日光街道で埼玉県に入る

草加の中心街

▲草加の中心街

草加宿の芭蕉像

▲草加宿の芭蕉像

草加宿の望楼

▲草加宿の望楼

草加宿を流れる綾瀬川

▲草加宿を流れる綾瀬川

草加宿の木橋

▲草加宿の木橋

日光街道の松並木

▲日光街道の松並木

日光街道の芭蕉碑

▲日光街道の芭蕉碑

Comments

Comments are closed.