奥の細道紀行[3]
投稿日:2016年7月16日
前途三千里の思い
深川の「芭蕉旅立ちの地」から日本橋に戻ると、再度、日本橋を出発する。国道4号で上野駅前から三ノ輪を通り、そして千住へ。千住大橋を渡ると日光街道最初の宿場の千住宿だ。
東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道の千住宿は「江戸四宿」といわれたが、それら4宿の中でも千住宿は一番繁栄を謳歌した宿場。千住大橋を渡る手前の国道4号の左側には素盞雄神社(すさのおじんじゃ)がある。境内には大銀杏。「子育銀杏」といわれ、イチョウの大木には子育ての願いを込めた絵馬が多数、かけられている。その右手奥に芭蕉句碑がある。その句碑には線画で芭蕉像が描かれている。
素盞雄神社をあとにして千住大橋を渡るのだが、この橋は昔も今も日光街道にかかる大橋だ。隅田川に大橋(両国橋)がかかるまでは、「大橋」といえば千住大橋のことだった。その歴史は古く、文禄3年(1594年)には完成したという。
千住大橋を渡ったところには大橋公園。ここはちょっとした芭蕉公園といったところで、「おくのほそ道矢立初」の碑が建ち、「奥の細道」のルート図が描かれている。
芭蕉は深川を旅立つと舟で隅田川を上り、この千住大橋の北詰に揚がった。まさに大橋公園のある場所だ。芭蕉はみちのくへの旅立ちを前に、千住宿で見送りの弟子たちと別れたのだ。千住大橋を渡ると国道4号は旧日光街道と分岐し、左にカーブし、京成の千住大橋駅の下を通り、荒川にかかる千住新橋を渡っていく。
ということで、いったん国道4号で千住大橋と千住新橋の間を走り、千住新橋から旧日光街道で千住大橋まで戻った。その間では常磐線の北千住駅近くを通る。地下鉄の千代田線や東武伊勢崎線も通る北千住駅は今の千住の中心的存在。さらに旧街道を走ると、千住大橋に戻る直前には「奥の細道プチテラス」が道の左側にあり、そこには芭蕉の石像が建っている。ここには日光街道の一里塚があった。なぜこのような走り方をしたかというと、千住宿を通る旧日光街道は日本橋とは反対方向の一方通行路だからだ。
もう一度、千住大橋を渡り、今度は南千住駅近くの小塚原回向院へ。このあたりがかつての小塚原の刑場。ここは東海道の品川宿に近い鈴ヶ森の刑場と並ぶ江戸の二大刑場だった。
こうして千住宿をめぐり終えると、もう一度、千住大橋を渡り、さらに千住新橋を渡って次の草加宿へとスズキST250を走らせていくのだった。
弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光おさまれるものから、富士の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心細し。むつまじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千住といふ所にて船を上がれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻の巷に離別の涙をそそぐ。
行く春や 鳥啼き 魚の目は涙
これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと、見送るなるべし。