カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥の細道紀行[8]

投稿日:2016年7月30日

那須野越え

栃木県/2009年

 芭蕉は日光から今市に戻り、次の目的地の黒羽に向かっていく。

 日光→今市間は大谷川の北岸を通り、今市からは日光北街道で矢板へ、さらには大田原へを経て黒羽まで行っている。今市から奥州街道の宿場、大田原までが日光北街道、大田原→黒羽間は黒羽街道になる。

 日光見物を終えたところで、カソリはスズキST250を走らせ、大谷川の北岸の道を通って今市へ。国道121号(会津西街道)にぶつかると、さらに大谷川北岸の国道461号を行く。この国道461号が日光北街道になる。日光北街道と会津西街道は奥州方面から日光に向かう二大街道だ。

 轟を通り、大渡にある日帰り湯の東照温泉(入浴料700円)に入る。ここは源泉掛け流しのやわらかな湯。無色透明の湯で内風呂と露天風呂がある。

 東照温泉を過ぎると鬼怒川を渡る。当時は日光北街道一番の難所だった。舟生船場で渡し船に乗って対岸に渡ったが、渇水期には仮橋がかけられたという。増水時には川止めになった。今は国道461号の大渡橋で対岸に渡る。そこにはアユのやな場があった。

 日光から40キロの玉生に着く。ここが日光北街道唯一の宿場。芭蕉はここでひと晩、泊まっている。玉生には「芭蕉一宿之跡」碑が草むらの中に立っていた。

 矢板で国道4号に合流し、大田原の野崎から再度、国道461号を行く。そして奥州街道の宿場、大田原の町に入っていく。ここは千住宿から数えて22番目の宿。大田原からさらに国道461号で黒羽へ。大田原→黒羽間は黒羽街道になる。大田原はまさに交通の要衝の地。日光北街道が奥州街道と分岐し、さらに西那須野と黒羽を結ぶ黒羽街道が交差している。大田原を出ると広々とした那須野原が広がり、はるかかなたには那須連峰の山々が見えている。そんな広野の風景の中をST250で走る。芭蕉の感動的な出会いのシーンの那須野越えは、このあたりでの出来事なのだろう。

 日光から60キロ、黒羽に到着。ここは芭蕉の大きな目的地のひとつ。黒羽には13日間、滞在した。これは「奥の細道」最長の滞在日数になっている。

 那須の黒羽という所に知る人あれば、これより野越えにかかりて、直道を行かんとす。遥かに一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜を借りて、明けくればまた野中を行く。そこに野飼ひの馬あり。草刈る男に嘆き寄れば、野夫といへどもさすがに情知らぬにはあらず。『いかがすべきや。されどもこの野は縦横に分かれて、うひうひしき旅人の道踏みたがへん、あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ』と、貸しはべりぬ。小さき者ふたり、馬の跡慕いて走る。ひとりは小姫にて、名を『かさね』といふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、

  かさねとは 八重撫子の 名なるべし  曽良

 やがて人里に至れば、価を鞍壷に結び付けて馬を返しぬ

『おくのほそ道』

 曽良の「随行日記」では「日光→黒羽」間は次のようになっている。

一、 同二日 中略 鉢石ヲ立、奈須大田原へ趣く。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡ト云所ヘカヽルト云ヘドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下り、左ノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカヽリ、大渡ト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。
今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。
大渡ヨリ船入ヘ壱リ半ト云モ壱里程有。絹川ヲ仮橋有。大形は船渡し。
船入ヨリ玉入へ壱リ。未ノ上剋ヨリ雷雨甚強、漸ク玉入ヘ着。
一、 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。
一、 同三日 快晴。辰上剋、玉入ヲ立。
鷹内ヘ二リ八丁。大田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云モ二リ余也。
翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。

大渡の東照温泉

▲大渡の東照温泉

大渡橋から見る鬼怒川。ヤナ場が見える

▲大渡橋から見る鬼怒川。ヤナ場が見える

日光北街道玉生宿の「芭蕉一宿之跡」碑

▲日光北街道玉生宿の「芭蕉一宿之跡」碑

国道4号との交差点

▲国道4号との交差点

大田原の中心街

▲大田原の中心街

那須野の水田地帯

▲那須野の水田地帯

広々とした那須野を行く

▲広々とした那須野を行く

黒羽に到着

▲黒羽に到着

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