奥の細道紀行[9]
投稿日:2016年8月1日
師の山居跡を訪ねて
芭蕉は黒羽滞在中に雲厳寺に行った。臨済宗妙心寺派の名刹で山中にある。
黒羽からスズキST250を走らせ、雲厳寺まで行ったが、その間は12キロ。山門の前を清流が流れている。八溝山から流れてくる清流を赤い橋で渡り、大きな山門をくぐり、本堂へ。雲厳寺は全山、深い緑に覆われている。
雲厳寺の境内には芭蕉の句と仏頂和尚の歌を刻み込んだ碑が建っている。
黒羽滞在中、芭蕉が一番行きたかったのはこの雲厳寺。その裏山には仏頂和尚の山居跡が残されていたからだ。
仏頂和尚は鹿島の根本寺の住職だった。鹿島神宮に寺領を奪われ、それを取り戻すために訴訟を起こした。その間、江戸・深川の大工町に住んでいたことから芭蕉とのつながりができたという。仏頂和尚は9年間の闘いののち、勝訴し、寺領を取り戻した。芭蕉は正義を貫き通したその信念におおいに心ひかれたようだ。仏頂和尚は勝訴の後はすぐに住職をやめ、雲厳寺の草庵で修行者として、仏道を歩んだ。芭蕉は参禅の師でもあったという仏頂和尚の山居跡はどうしても見たかったのだ。
縦横五尺にたらぬ草の庵
結ぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書き付けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。その跡見んと、雲厳寺に杖を曳けば、人々進んでともにいざなひ、若き人多く道のほどうち騒ぎて、おぼえずかの麓に到る。山は奥ある気色にて、谷道遥かに、松・杉黒く、苔しただりて、卯月の天今なほ寒し。十景尽くる所、橋を渡って山門に入る。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢ登れば、石上の小庵、岩窟に結び掛けたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。
木啄も 庵は破らず 夏木立
と、とりあえぬ一句を柱に残しはべりし。
さてカソリはといえば雲厳寺を見てまわったところで、雲厳寺前の道を行き、八溝山へと登っていく。稜線上に出ると那須連峰の山並み、日光連山が眺められる。栃木・茨城・福島の三県境にはそれぞれの県木、栃木の栃、茨城の梅、福島の欅が植えられている。
三県境を過ぎ、標高1022メートルの八溝山の山頂へ。山頂直下までST250で走っていける。そして城を模した山頂の展望台に立った。そこからは富士山が見えるとのことだが、残念ながら霞んでいた。この季節では無理のようだ。
展望台を降りると、同じく山頂にある八溝嶺神社を参拝。日本武尊をまつっている。八溝山の山頂は茨城・福島の県境になる。
八溝山ではさらに八溝湧水群の名水「金性水」を飲み、山頂からわずかに下ったところにある日輪寺を参拝。十一面観音がまつられている。日輪寺は坂東三十三ヵ所の第21番札所。白装束を着た巡礼者たちが参拝していた。ここは坂東三十三ヵ所の中でも最も山深いところにある。それだけに「坂東の八溝知らず」とか、「八溝知らずの偽坂東」といわれている。坂東三十三ヵ所めぐりで日輪寺だけを巡らなかったり、山麓からの遥拝で済ませてしまうことが多いからだ。
八溝山からは来た道を引き返し、雲厳寺の前を通り、黒羽の町に戻った。