奥の細道紀行[10]
投稿日:2016年8月3日
「殺生石」をカソリも歩く
黒羽を出発。「奥の細道」の相棒のスズキST250を走らせ那須湯本に向かっていく。国道294号から県道34号に入り鍋掛へ。鍋掛は奥州街道の宿場。奥州街道は大田原から県道72号で鍋掛宿、越堀宿と通り、芦野宿で国道294号に合流。寄居宿を通り、関東と東北の境の明神峠を越え、白坂宿を通って白河に至る。
「大田原→白河」間の奥州街道というのはローカル色が豊かで、一里塚が残り、宿場の風情も残っていておすすめのコースだ。
鍋掛からは芭蕉の足跡を追って奥州街道の県道72号に入り、那珂川を渡る。対岸が越堀宿。その先で奥州街道と別れ、東北本線の高久駅前まで行った。このあたりまで来ると、那須連峰の山々がはっきりと見えてくる。
芭蕉は高久で2泊している。黒羽藩領高久村の名主、高久角左衛門の家に泊まったのだ。高久駅前から黒磯の町中に入り、那須街道の県道17号で那須湯本温泉へ。
那須湯本温泉に到着すると、まずは宿探し。何軒かの宿をまわり、共同浴場「滝乃湯」の隣にある「月光館」に泊まった。
さっそく那須湯本温泉とその周辺をまわる。
那須湯本温泉の歴史は古く、奈良時代にはすでに知られていた。江戸時代には黒羽藩の湯本奉行がこの地で産出する硫黄を管理していた。
まずは那須与一伝説で知られる温泉神社を参拝。芭蕉もここに来ている。神社を参拝しただけでなく、那須与一にまつわる神社の宝物の数々を見せてもらっている。そして芭蕉も歩いた「殺生石」をカソリも歩く。
以前はあちこちで蒸気を噴き上げていた殺生石だが、今ではおとなしくなってしまったとでもいおうか、噴煙はまったく見られない。ここは那須湯本温泉の目玉なので、訪れる人は多い。大勢の人たちと一緒に遊歩道を歩いた。
殺生石からはボルケーノハイウェイの那須高原有料道路で那須高原を登っていく。大丸温泉からロープウェイの山麓駅前を通り、終点の峠の茶屋まで登った。那須岳の主峰、茶臼岳が目の前だ。
大丸温泉に下ると、八幡温泉へ。そこからの眺望は抜群。正面にはゆるやかな山容の八溝山が、左手には白っぽい白河の町並みが見えている。八幡温泉から那須湯本温泉に下り、「月光館」に戻った。ここは1泊2食5000円ときわめて安い宿泊代。だが、残念ながら夕方、飛び込みで行った宿なので、夕食は用意してもらえなかった。
すぐ隣の共同浴場「滝乃湯」に入る。泊まり客は無料で入れる。「滝乃湯」の並びには「芭蕉の宿泊地」の案内板が建っている。ここに芭蕉がひと晩泊まった「和泉屋」があったという。
「滝乃湯」はすごくいい。木の湯船、木の洗い場。にごり湯で酸味が強い。いつも混みあっている人気の「鹿の湯」と違って入浴客の姿はほとんどなく、ゆったり気分で湯につかることができた。湯から上がり、「月光館」に戻ると、2階の部屋の窓を開ける。気持ちのいい夕風に吹かれながら、スーパーで買った夕食の握りずしを食べるのだった。
野を横に 馬引き向けよ ほととぎす
殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す。
黒羽から那須湯本までの行程は曽良の「随行日記」では次のようになっている。
一、 | 十六日 天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被添。 |
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一、 | 十七日 角左衛門方ニ猶宿。野間ハ大田原ヨリ三里之内、鍋カケヨリ五六丁西。 |
一、 | 十八日 卯剋、地震ス。辰ノ上剋、雨止。午ノ剋、高久角左衛門宿ヲ立。暫有テ快晴。馬壱疋、松子村迄送。此間壱リ。松子ヨリ湯本ヘ三リ。未ノ下剋、湯本之五左衛門方ヘ着。 |
一、 | 十九日 快晴。予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽ニ戻ス。午ノ上剋、湯泉ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的射残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不定。次ハ冷。ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所者ノ云也。 温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、雨神一方ニ拝レサセ玉フヲ、 湯をむすぶ 誓いも同じ 石清水 翁 石の香や 夏草赤く 露あつし 正一位ノ神位被加ノ事、貞享四年黒羽ノ舘主信濃守増栄被寄進之由。祭礼九月廿九日。 |