奥の細道紀行[17]
投稿日:2016年8月18日
信夫の里のもぢ摺り石
福島に到着すると福島駅前の「東横イン」に泊まった。
翌朝はおにぎり&味噌汁の朝食を食べてから出発。福島駅の東口駅前には芭蕉と曽良の像が立っている。
「奥の細道」では、福島市民にとっては何とも残念なことがひとつある。
芭蕉は福島に到着すると、旧知の押尾氏宅を訪ねたが、神尾氏は江戸に出かけて留守だった。そこで妻と母親に会っただけで奥州街道の福島宿を離れていく。もし押尾氏と会えていたら、須賀川のように何泊かしたかもしれない。そうすると、きっと福島宿では何句もの句を詠んだことであろうし、福島は「奥の細道」の重要なポイントになったに違いない。何とも惜しいことをした。
さて、福島だが、まずは信夫山に登った。展望台から福島の中心街と阿武隈川の流れを見下ろし、苔むした石段を登り、羽黒神社の日本一の大わらじを見た。
福島駅前に戻ると、次に「文知摺観音」に向かった。
早苗とる手もとや昔しのぶ摺り
信夫の里の「文知摺観音」の境内に、その「しのぶもぢ摺り石」がある。
福島駅前から国道4号を北へ。福島競馬場を過ぎたところで、国道4号を右折し、国道115号に入っていく。『おくのほそ道』にもあるように、信夫の里の山陰に文知摺観音はある。観音堂と多宝塔。その境内に「もぢ摺り石(文知摺石)」。芭蕉の句碑もある。
高さ約2メートル、幅約3メートル、推定重量約70トンという巨石だ。
一見すると何の変哲もない文知摺石は、悲しい「虎女伝説」の舞台。
「虎女伝説」というのは、この地の山口長者の娘、虎女と都からやってきた按察使(巡察官)、源融(みなもとのとおる)の悲恋の物語。
源融は虎女と恋に落ちた。だが再会を約束して都に帰った源融は、2度と信夫の里に戻ってくることはなかった。
虎女は悲しみのあまり、文知摺石をこすると、源融の面影が浮かび、消えていく。
そして虎女は源融から寄せられた歌を抱きしめて息絶えていく…という伝説だ。
陸奥のしのぶもぢすり誰ゆゑに
乱そめにし我ならなくに (古今集)
曽良の「随行日記」では、この日の芭蕉の行程は次ぎのように書き記されている。
二日 | 快晴。福嶋ヲ出ル。町ハズレ十町程過テ、イガラベ(五十辺)村ハズレニ川有。川ヲ不越、右ノ方へ七八丁行テ、阿武隈川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七八丁山ノ方へ行テ、谷アイにモジズリ石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六七本有。虎が清水ト云小ク浅キ水有。福嶋ヨリ東ノ方也。其辺ヲ山口村ト云。ソレヨリ瀬ノ上ヘ出ルニハ、月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ、十四五丁ニテ瀬ノ上也。山口村ヨリ瀬ノ上ヘ弐里程也。 |
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ということで、芭蕉は文知摺石を見たあと、奥州街道の瀬の上宿に出たことがわかる。それと福島からは岡部の渡し、瀬の上宿には月ノ輪の渡しで阿武隈川を渡ったことがわかる。400年前の東北は、けっこう交通が発達していたようだ。