奥の細道紀行[20]
投稿日:2016年8月24日
伊達の大木戸を越す
芭蕉は奥州街道と羽州街道という東北の2大街道の追分、桑折からは、奥州街道をたどっていく。
「伊達の大木戸を越す」
と『おくのほそ道』にあるように、福島・宮城県境の国見峠を越えて、城下町であり、奥州街道の宿場町でもある白石に下っていった。その間の奥州街道の宿場は桑折→藤田→貝田→越河→斎川→白石となる。貝田宿と越河宿の間が国見峠になる。
伊達の大木戸というのは、鎌倉方を迎え討つ奥州・平泉方が国見峠近くに築いた砦の柵のこと。ここは飯坂の医王寺の項でふれた信夫庄の庄司、佐藤基治敗軍の地。文治5年(1189年)、源頼朝軍が奥州平泉の藤原軍を打ち破った古戦場なのだ。
この戦いは「阿津賀志(あつがし)山の戦い」として知られている。
阿津賀志山は今は厚樫山と書かれているが、国道4号からはよく見える。その中腹を東北道が通っている。東北道の国見SAは、この山の中腹にある。別称は国見山。国見山と国見峠はセットになっている。
鎌倉幕府は国見峠での勝利を機に、一気に東北を支配していった。
「曽良随行日記」では、この日の行程が次のように書かれている。
三日 | 雨降ル。巳ノ上刻止、飯坂を立。桑折ヘ二リ。折々小雨降ル。桑折ト貝田の間ニ伊達ノ大木戸ノ場所有。越河ト貝田トノ間ニ、福嶋領(今ハ桑折ヨリ北は御代官所也)ト仙台領トノ堺有。左ノ方、石ヲ重ネテ有。ソノ下ノ道、アブミコワシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ、次信・忠信が妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。 |
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国見峠にはその昔、福島領と仙台領の境の碑があったという。
「左ノ方、石ヲ重ネテ有」
と曽良が書いているように、石碑のようなものが建っていたのだろう。
さらにもうひとつ、「今ハ桑折ヨリ北は御代官所也」とあるように、桑折、藤田、貝田の3村は、天和2年(1682年)以降、幕府直轄の天領になった。
国見峠を越えて宮城県側に入り、越河宿(JR東北本線の越河駅がある。国道4号の交差点名も越河)を過ぎ、次ぎの斎川宿に近づいたところに田村神社がある。その境内に「甲冑堂」があるのだ。これが曽良の書いている「次信・忠信が妻ノ御影堂」になる。
今の甲冑堂は昭和14年に竣工されたものだが、もとの堂は江戸初期につくられ、2体の甲冑姿の女性像がまつられていたので甲冑堂と呼ばれた。
これも飯坂の医王寺の項でふれたが、佐藤基治の息子、佐藤継信・忠信兄弟の、2人の妻の像だといわれている。2体の像はともに立像。鎧を着け、立烏帽子をかぶり、1体は弓矢、もう1体は刀を持っている。
甲冑堂を過ぎると、奥州街道の斎川宿に入り、さらに白石宿へと下っていく。芭蕉は白石宿でひと晩、泊まった。
ところで福島・宮城県境の厚樫山だが、先にもいったように、国見山とも呼ばれている。国見山に対しての国見峠になる。
東北では宮城県の鬼首に国見峠があるし、岩手・秋田県境の国道46号の旧道は国見峠。九州(国道265号)にも国見峠はある。
国見山、国見岳も各地にあるのだ。
九州山地の最高峰は国見岳だし、熊本・宮崎の県境に連なる山々は国見山地。三重県には2つの国見山があるし、高知県や長崎県にも国見山はある。福井県には国見岳がある。
福島の国見町は国見峠、国見山(厚樫山)にちなんだ町名だが、ほかにも大分県の国東半島や島原半島に国見はある。仙台市内にはJR仙山線の国見駅がある。
「国見」はきわめて興味深い峠名であり山名、地名だ。
福島・宮城県境の国見峠は峠に立って福島県側を見下ろすのには絶好のポイント。国を見下ろしているという気分になる。そのあたりも峠名の由来になっていると思うが、「国見」に出会うたびに、それらひとつひとつの「国見」をもっと知りたいと思うのだ。