カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥の細道紀行[23]

投稿日:2016年8月30日

芭蕉の辻を訪ねるが

宮城県仙台市/2009年

「杜の都」仙台に到着すると、まずは青葉城(仙台城)跡へ。大手門の隅櫓の脇から登っていったが、長い車の列ができていて大渋滞。こういうときは「バイクでよかった!」としみじみ思う。スズキST250ですり抜けして楽々と天守閣跡へ。騎馬姿の伊達政宗像との対面だ。

 仙台は古くは千代、もしくは川内と書かれたようだが、慶長6年(1601年)に政宗が岩出山からこの地に城を移したとき「仙台」に改めた。それ以降、仙台藩62万石の城下町として繁栄しつづけている。

 青葉山の高台にある天守閣跡からはそんな仙台の町並みを一望。はるか遠くには太平洋も見える。

 芭蕉は仙台には4泊している。

 奥州街道沿いの繁華街、国分町の大崎庄左衛門の旅籠に泊まった。

宮城野

 名取川を渡って仙台に入る。あやめ葺く日なり。旅宿を求めて、四五日逗留す。ここに画工加衛門といふ者あり。いささか心ある者と聞きて、知る人なる。この者、年ごろ定かならぬ名所を考え置きはべればとて、一日案内す。宮城野の萩茂り合ひて、秋の気色思いやらるる。玉田・横野、躑躅が岡はあせび咲くころなり。日影も漏らぬ松の林に入りて、ここを木の下というぞ。昔もかく露深ければこそ、「みさぶらひみさか」とよみたれ。薬師堂、天神の御社など拝みて、その日は暮れぬ。なほ、松島、塩竃の所々、画に書きて贈る。かつ、紺の染緒付けたる草鞋二足餞す。さればこそ、風流のしれ者、ここに至りてその実を顕はす。

  あやめ草足に結ばん草鞋の緒

 かの画図にまかせて行けば、奥の細道の山際に、十符の菅あり。今も年々十符の菅菰を調えて国守に献ずといへり。

『おくのほそ道』

 芭蕉はこのように仙台滞在中のことを書いている。

 カソリは青葉城跡のレストランで仙台名物の「牛タン」を食べ、芭蕉の足跡を追って、仙台の中心街に向かっていく。

 ST250を停め、大町のアーケードを歩き、「芭蕉の辻」へ。ここは青葉城からの大町と奥州街道の交差点。芭蕉が4泊したという国分町もこのあたりだ。

 ということで、「芭蕉の辻」というからには、この交差点に芭蕉が泊まったという大崎庄左衛門の旅籠があるものだとばかり思っていた。ところがそうではなかった。

「芭蕉の辻」の由来にはいくつかの説があるという。

 ここに芭蕉樹があったからだとか、昔から重要な辻だったので「場所の辻」が訛って「芭蕉の辻」になったとか、伊達政宗が重用していた芭蕉という名の虚無僧がここに住んでいたとか…。

 残念ながら大崎庄左衛門の旅籠跡には行きつけなかった。また次回だな。そのときは国分町をもっと歩き、芭蕉が4泊したという旅籠跡を探し出してみよう。

名取川を渡って仙台に入る

▲名取川を渡って仙台に入る

青葉城の隅櫓

▲青葉城の隅櫓

青葉城跡の七夕

▲青葉城跡の七夕

青葉城跡の護国神社を参拝

▲青葉城跡の護国神社を参拝

青葉城の天守閣跡に建つ伊達政宗像

▲青葉城の天守閣跡に建つ伊達政宗像

大勢の観光客でにぎわう青葉城跡

▲大勢の観光客でにぎわう青葉城跡

青葉城跡から仙台の中心街を見下ろす

▲青葉城跡から仙台の中心街を見下ろす

「伊達の牛たん」の「牛タン定食」

▲「伊達の牛たん」の「牛タン定食」

にぎやかな大町のアーケード街を歩く

▲にぎやかな大町のアーケード街を歩く

ここが「芭蕉の辻」

▲ここが「芭蕉の辻」

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