奥の細道紀行[25]
投稿日:2016年9月3日
千年の時を超えて
仙台を出発。国道45号を南下し多賀城へ。仙台から多賀城までは途切れなく町並みがつづく。三陸道の仙台港北IC入口を過ぎた先で国道45号を左折し、3、4キロ走ると多賀城跡に着く。ここは古代陸奥国の国衙跡だ。
国衙というのは国府の政庁のことで、今の時代の県庁のようなもの。多賀城は神亀元年(724年)に造られた。一辺が約1キロの外郭で囲まれ、南・東・西辺には門が開かれていた。そのほぼ中央に政庁が置かれていたという。10世紀の後半までは陸奥国の国府、東北の拠点として機能したのだ。スズキST250を停め、夏草の茂る多賀城跡を歩いていると、東北の歴史の一端を強く感じとれるというものだ。
多賀城跡のすぐ近くには「奥の細道」の重要な舞台になっている「壷碑(多賀城碑)」がある。祠のような堂の中に壷碑はあるが、高さ約2メートル、幅約1メートル、厚さ約70センチの砂岩の石碑で、碑面は西を向いて建てられている。それには案内板によると、次ぎのように書かれているという。
京去 一千五百里
蝦夷国界去 一百二十里
常陸国界去 四百十二里
下野国界去 二百七十四里
此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将軍従四位上動四等大野朝臣東人之所置也天平寶字六年歳次壬寅議東海東山節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也 天平寶字六年十二月一日
天平寶字六年というのは西暦762年。京というのは奈良・平城京のことで、奈良時代の1里は約535メートルだった。
この壷碑には多賀城は神亀元年に按察使(陸奥・出羽両国の監督官)兼鎮守将軍(各地の城柵と兵士を統括する役人)の大野東人によって築かれたこと、天平宝字6年には、参議(大臣、大中納言に次ぐ国政の要職)であり、按察使兼鎮守将軍の藤原朝狩によって改修されたことが記されている。つまり壷碑は多賀城の改修記念碑なのだ。
多賀城の壷碑は群馬県吉井町(現高崎市)の多胡碑、栃木県湯津上村(現大田原市)の那須国造碑とともに日本三古碑に数えられている。
つぼの石ぶみは、高さ六尺余り、横三尺ばかりか。苔を穿ちて文字幽かなり。四維国界の数里をしるす。「この城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣○修造而。十二月朔日」とあり。聖武皇帝の御時に当れり。昔よりよみ置ける歌枕、多く語り伝うといえども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に代われば、時移り、代変じて、そのあとたしかならぬことのみを、ここに至りて疑いなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羇旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。
芭蕉は千年前に建てられた壷碑を見て、「涙も落つるばかりなり」といっている。それは千年前の人と心をひとつにできた喜びといっていい。これが旅の真髄というものだろう。あらためて芭蕉はすごい旅人だと思う。