奥の細道紀行[41]
投稿日:2016年10月10日
山形の母なる流れ『最上川」
山寺の次は大石田。国道13号から県道189号で大石田の中心街に向かっていくと、左手には最上川が見えてくる。まさに「山形の母なる流れ」。その源流から河口まで、全長229キロという東北第3位、日本でも第7位の大河のすべてが山形県内になる。最上川あっての山形県といっていい。
その最上川の河畔には、
芭蕉翁
最上川と出会いの地
と大書された看板が立っていた。
東北第1の大河は北上川、第2は阿武隈川、そして第3位が最上川になるが、芭蕉はすでに阿武隈川、北上川は見ているので、最上川を初めて見たときはきっと大きな感動を受けたことだろう。
「おー、これが最上川か。これでみちのくの大河はすべて見た!」
といった声を上げたかもしれない。
芭蕉は船で最上川を下っていくつもりにしていたので、河港として栄えていた大石田にやってきたのだ。
最上川乗らんと、大石田という所に日和を待つ。ここに古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐり足して、新古二道に踏み迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流ここに至れり。
最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいう恐ろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって舟危し。
五月雨を集めて早し最上川
芭蕉は最初は大石田から最上川の舟に乗るつもりだったが、結局、乗らなかった。新庄まで羽州街道で行き、本合海で乗っている。最上川の稲船や白糸の滝などは、「本合海→清川」間の船旅でのことになる。
それはおいて、「碁点・隼などという恐ろしき難所あり。」とあるが、これが最上川の三難所。碁点というのは碁点温泉のあるところで、最上川にかかる碁点橋西側のたもとには「日本三急流」の碑が建っている。ここが最初の難所になる。
碁点の下流、最上川が大きく湾曲する地点の三ヶ瀬が2番目の難所で、湾曲部を曲がりきったところには長島橋がかかっている。ここには「三難所舟下り」の船着場がある。
長島橋から2キロほど下ったところが第3番目の難所の隼で、三難所の中では一番の難所になっている。
これら三難所を通り過ぎたところに大石田がある。
大石田が最上川の河港ととして栄えたのは、ここより上流は川船では行きにくいからである。
大石田に到着すると、中心街をひとまわりし、最上川右岸の船役所跡を見てまわる。そのあと大橋で対岸に渡り、芭蕉も訪ねた向川寺を参拝。この寺は曹洞宗の名刹で多くの末寺を持っていた。金比羅大権現をもまつっていたので、最上川の船運にかかわる人たちの厚い信仰を集めていた。
芭蕉は大石田河岸の船宿高野一栄宅に泊まったが、この日、曽良は疲労困憊し、向川寺には芭蕉だけが行った。芭蕉の人なみ外れた体力・気力のすごさには頭が下がる。
「山寺→大石田」間の曽良の「随行日記」は次ぎのようなものである。
廿八日 | 馬借りて天童ニ趣。六田ニテ、又内蔵ニ逢。上飯田ヨリ壱リ半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳。休ス。 |
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廿九日 | 夜ニ入小雨ス。発一巡終テ、翁、両人誘テ黒滝ヘ被参詣。予所労故、止。未刻被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ特賞。夜ニ入、帰。 |
晦日 | 朝曇、辰刻晴。翁其辺へ被遊、帰、物ども被書。 |
このように大石田には2泊しているが、ここで船には乗っていない。「黒滝」とあるのが黒滝山向川寺のことである。
大石田からは芭蕉を追って新庄に向かった。