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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥の細道紀行[43]

投稿日:2016年10月16日

芭蕉、最上川を下る

山形県新庄市/2009年

 新庄を出発。国道47号で本合海へ。ここが芭蕉乗船の地だ。最上川の岸辺には芭蕉と曽良の像が建っている。「五月雨をあつめてはやし最上川」の句碑も建っている。
 
 本合海(もとあいかい)は最上川が北から西へと流れを変える大湾曲地点。東から新田川が流れ込んでくるのでその名がある。古くから新庄盆地と最上川を結ぶ河港として栄えた。

 本合海から国道47号を行くと、じきに新庄市と戸沢村の境を過ぎ、古口に着く。芭蕉はここで船を乗り換え、下船の地、清川に向かっていった。

 古口には戸沢藩の船番所があった。船番所の役人は2本差の帯刀を許され、200石(米500俵)を与えられていたというから、いかにこの地の船番所が重要だったかがわかる。

 古口を過ぎると最上川は最上峡に入っていくが、当時、陸路はなく、最上川の船運が唯一の交通の手段になっていた。ということは、新庄方面から酒田に出ていく貨物、酒田から新庄方面に入ってくる貨物はすべて古口の河港を通った。

 そんな最上川の水運も大正2年に陸羽西線の新庄−古口間が完成し、翌3年に酒田まで開通すると、一気に衰退した。

 今は古口の船番所跡は最上川の川下りの舟乗場になっている。

 古口から最上川の流れを見ながら走りつづけると、右手に「白糸の滝ドライブイン」が見えてくる。ここが川下りの下舟場。その対岸には『おくのほそ道』で、「白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって舟危し。」と書かれている白糸の滝がある。

 国道のすぐ脇、最上川一夜観音の前からだと滝がよく見える。この白糸の滝は「最上四十八滝」のひとつに数えられ、その名の通り、糸状に細長く、何段にもなって流れ落ちている。

 当時の最上川はきっともっと大きな流れで、もっと速い流れだったことだろう。なにしろ最上川は球磨川、富士川と並ぶ「日本三急流」といわれた川だ。

 白糸の滝を過ぎると、『ツーリングマップル東北』にものっているが、柏谷沢を過ぎる。ここが戸沢藩一番西の地点。そこを過ぎると、最上峡を抜け出て、庄内平野入口の清川に着く。

 清川の国道47号の脇、清川小学校の裏手には、「芭蕉上陸の地」碑が建っている。芭蕉像が建ち、ここにも「五月雨をあつめてはやし最上川」の句碑が建っている。

 芭蕉は清川から羽黒山へと向かっていった。

 曽良の「随行日記」では、「新庄→清川」間は次ぎのようになっている。

三日  天気吉 新庄ヲ立、元合海、次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリモ状遣ス。船、才覚シテノスル。古口へ舟ツクル。是又、平七方へ新庄甚兵へヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、清川ニ至ル。此間ニ仙人堂、白糸ノ滝、右ノ方ニ有。後略

 芭蕉は元合海(本合海)では大石田の一栄と新庄の風流から次郎兵衛に宛てた紹介状でもって、川船の手配をしてもらっている。古口でも船宿平七に宛てた風流からの紹介状と新庄で用意した手形でもって船を乗り換え、清川に向かっている。行く先々で多くの人たちに世話になり、助けられながら旅をつづける芭蕉と曽良なのである。

 最上川の船で右手に見た仙人堂は義経の家臣である常陸坊海尊をまつったもので、古くから最上川の舟衆の守り神、出羽三山詣の道中を守る神として信仰を集めていた。

夜明けの新庄

▲夜明けの新庄

本合海に到着

▲本合海に到着

本合海の芭蕉&曽良の像

▲本合海の芭蕉&曽良の像

本合海の芭蕉句碑

▲本合海の芭蕉句碑

本合海を流れる最上川

▲本合海を流れる最上川

戸沢藩の船番所跡

▲戸沢藩の船番所跡

最上峡の川舟

▲最上峡の川舟

白糸の滝を見る

▲白糸の滝を見る

清川の芭蕉上陸の地

▲清川の芭蕉上陸の地

清川の芭蕉像

▲清川の芭蕉像

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