奥の細道紀行[44]
投稿日:2016年10月18日
出羽三山神社を参拝する
清川に上陸した芭蕉は狩川から羽黒山に向かっている。今の道でいえば県道46号に相当する。カソリはといえば、1本東側の県道45号で羽黒山に向かった。というのはこの道ならば、出羽三山の最高峰、月山が見えるのではないかと期待したからだ。その期待通りとでもいおうか、月山が正面に見えてきた。その月山に向かってスズキST250を走らせた。
ところで芭蕉の清川上陸では、ちょっとしたトラブルがあったようだ。
曽良の随行日記には次ぎのような箇所がある。
「平七ヨリ状添方ノ名忘タリ。状不添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。」
最上川の川船が清川に到着したとき、芭蕉は本合海の平七の紹介状を持って番所に届けたが、手渡す相手の名前を忘れてしまったため、すぐには上陸の許可が下りなかった。しかしここも戸沢藩の番所と同じで、領内に入るのはそれほど厳格ではないので、まもなく上陸できた。
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉という者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に宿して、憐みんの情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊において俳諧興行。
ありがたや雪をかをらす南谷
五日、権現に詣づ。当山開闢能除大師は、いづれの代の人ということを知らず。延喜式に「羽州里山の神社」とあり。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山というにや。出羽といへるは、「鳥の毛羽をこの国の貢に献る」と、風土記にはべるやらん。月山・湯殿を合わせて三山とす。当時、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かかげそひて、僧坊棟を並べ、修験行法を励まし、霊山霊地の験効、人貴びかつ恐る。繁栄長にして、めでたき御山と謂つつべし。
清川から羽黒山までの行程は、曽良の「随行日記」では次ぎのようになっている。
三日 | 天気吉。前略。羽黒手向。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院へ、大石田平右衛門ヨリ状添、露丸子へ渡。本坊へ持参。再帰テ、南谷へ同道。祓川ノ辺ヨリクラク成。本坊ノ院居所也。 |
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四日 | 昼時、本坊へ麦切ニテ被招、会覚ニ謁ス。南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表斗ニテ帰ル。三日ノ夜、稀有観修坊釣雪逢。互ニテイ泣ス。 |
五日 | 朝ノ間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。昼迄断食シテ註連カク。夕飯過テ、先羽黒ノ神前ニ詣。帰、俳一折ニミチヌ。 |
芭蕉は羽黒山では手向(とうげ)の近藤左吉(俳号は露丸)の家に到着。左吉が本坊に出かけていたため、その帰りを待って、別当代の会覚阿闍梨にあてた大石田の一栄からの紹介状を渡した。左吉はそれを本坊の別当寺若王寺の和合院(会覚の別名)に届け、再び自宅に戻って芭蕉を先導し、南谷の別当寺別院、玄陽院に案内した。芭蕉はここを宿舎として6月3日から9日まで、6日の月山泊を除き、6泊している。
さてカソリはといえば、羽黒山門前の手向に着くと随身門をくぐり、杉木立の表参道を歩いて登っていく。その途中には国宝の五重塔。600年前に再建された東北最古の五重塔だ。東北の建造物での国宝というと、ほかには中尊寺の金色堂と瑞巌寺の本堂、大崎八幡神社の社殿があるだけ。2446段の石段を登りきり、羽黒山の山頂に到着。出羽三山を合わせてまつる出羽三山神社を参拝する。社殿の中央が月山神社、右が出羽神社、左が湯殿山神社になる。境内には芭蕉像と芭蕉の句碑もある。ここでは出羽三山神社に隣りあう「出羽三山歴史博物館」を見学した。
出羽三山といっても羽黒山は低く、丘のような存在。月山は標高1984メートル、湯殿山は1504メートルなのに対して羽黒山は414メートルでしかない。羽黒山の参拝を終えると、芭蕉と同じように月山から湯殿山に向かった。