カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥の細道紀行[47]

投稿日:2016年10月24日

鶴岡城下に入る

山形県鶴岡市/2009年

 羽黒山、月山、湯殿山と「出羽三山」をめぐった芭蕉は、羽黒山の南谷に戻ってきたが、この「出羽三山めぐり」では相当、体力を消耗したようだ。

 南谷に戻ると八日、九日と2日、滞在し、十日に鶴ヶ岡(現在の鶴岡。明治以前は鶴ヶ岡といわれていた)に向かっていくが、その間の行程は曽良の「随行日記」では次のように書かれている。

八日  朝ノ間小雨ス。昼ヨリ晴。和交院御入、申ノ刻ニ至ル。
九日  断食。及昼ソウメンヲ進ム。亦、和交院ノ御入テ、飯・名酒等持参、申刻ニ至ル。花ノ句ヲ進テ、俳、終。ソラ発句、四句迄出来ル。
十日  飯道寺行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、麦切・茶・酒ナド出、未ノ上刻ニ及ブ。道迄、円入被迎。又、大杉根迄被送。祓川ニシテ手水シテ下ル。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。道々小雨ス。申ノ刻、鶴ヶ岡長山五郎右衛門宅ニ至ル。粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。

「出羽三山めぐり」を終えた翌日の八日は南谷で休養したが、昼過ぎに和合院がやってきて午後4時ごろには本坊に帰っていったとある。このように休養とはいっても、なかなか完全休養とはいかなかったようだ。この時に、和合院に望まれて下記の「出羽三山巡礼」の3句を短冊に書き記したようだ。
 
  涼しさやほの三日月の羽黒山
  雲の峰幾つ崩れて月の山
  語られぬ湯殿にぬらす袂かな

 九日は無事に「出羽三山めぐり」を終えることができた御山成就祝いとして午前中は精進潔斎の断食をし、昼になって登拝の際に掛けていた木綿注連を首から外し、素麺を食べた。これが御山成就の慣例になっていた。この席にも和合院が「飯・名酒等持参」で来てくれ、そのあとは句会になった。

 十日に南谷を出発。本坊に挨拶に立ち寄った際、「麦切・茶・酒ナド」が出たとある。そして「未ノ上刻」(午後1時半)ごろ、鶴ヶ岡に向かっていくのだが、門前の手向(とうげ)の左吉(呂丸)を道案内として、芭蕉だけが馬に乗った。

 羽黒山からは『ツーリングマップル東北』にも出ている野荒や荒川、赤川といった羽黒街道沿いの集落を通り、鶴ヶ岡の城下に入っていった。

 午後4時ごろ、芭蕉は鶴ヶ岡藩士長山五郎右衛門(重行)宅に到着。「粥ヲ望、終テ眠休シテ」とあるように、芭蕉の体調は良くなかった。

 芭蕉はそれでもひと眠りし、夜になってから、

  めずらしや山をいで羽の初茄子

 を発句にして、重行、曽良、呂丸と一巡したところでこの日の連句を終らせたのだ。

 

 さてカソリは芭蕉の足跡を追って、湯殿山からスズキST250を走らせ、鶴岡に向かう。国道112号の旧道を行き、月山修行の洞穴が残る七ツ滝を見た。田麦俣では多層民家を見た。山地を抜け出ると、風景は劇的に変り、庄内平野の広々とした稲田の風景に変わる。月山を間近に眺め、遠くには鳥海山が霞んで見えている。

 鶴岡の町に入り、中心街の鶴岡公園でST250を停めた。

 鶴岡は酒井氏13万8000石の城下町。鶴岡公園はその城跡だ。鶴岡公園に隣接する致道博物館を見学。致道博物館の敷地内に移築された旧鶴岡警察署庁舎や旧西田川郡役所、田麦俣の旧渋谷家住宅などを見てまわった。

 とくに興味深かかったのは多層民家の旧渋谷家住宅。その案内板には次のように書かれている。
「田麦俣は湯殿山麓の村落で、全国でも有数の豪雪地帯である。江戸時代には出羽三山参詣のための道者宿をしたり、強力や馬子をして生活していたが、明治維新後、宗教集落的な性格を失い、わずかな田畑を耕し、養蚕・炭焼を生業とするようになった。

 この地方の代表的な当建築はそのため創建当初の寄棟造りの破風窓のある妻の部分を切り取り、養蚕場として十分な採光通風の窓としたので、現在のような美しい輪郭と反りを持った『かぶと造り』という独特な外観の民家ができ上がった(後略)」

 致道博物館の見学を終えると、博物館の入口にある「三味庵」で昼食。「曽良の随行日記」にも出てくる「麦切」(760円)を食べた。

湯殿山から眺める山岳風景

▲湯殿山から眺める山岳風景

七ツ滝を望む

▲七ツ滝を望む

六十里越街道旧道の入口

▲六十里越街道旧道の入口

鶴岡公園

▲鶴岡公園

致道博物館の案内図

▲致道博物館の案内図

致道博物館の旧西田川郡役所

▲致道博物館の旧西田川郡役所

致道博物館の旧渋谷家住宅

▲致道博物館の旧渋谷家住宅

「三味庵」の「麦切」

▲「三味庵」の「麦切」

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