カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥の細道紀行[48]

投稿日:2016年10月26日

芭蕉は船でカソリは陸を

山形県酒田市/2009年
酒田

 羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、長山氏重行という武士の家に迎えられて、俳諧一巻あり。左吉もともに送りぬ。川舟に乗って酒田の港に下る。淵庵不玉という医師の許を宿とす。

  あつみ山や吹浦かけて夕涼み
  暑き日を海に入れたり最上川

『おくのほそ道』

 芭蕉が羽黒山を発ち、手向(とうげ)の佐吉の案内で鶴岡に到着したところまでは、前回でふれた。

 鶴岡では庄内藩士、長山五郎右衛門重行宅に泊まり、最上川河口の酒田に向かっていくのだが、曽良の「随行日記」では次ぎのようになっている。

十一日  折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。
十二日  朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。
十三日  川船ニテ坂田ニ趣ク。船ノ上七里也。陸五里也ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行の帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻ヨリ曇。暮ニ及テ坂田ニ着。玄順亭ヘ音信、留守ニテ、明朝逢。
十四日  寺島彦助亭ヘ被招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。

 前回もふれたことだが、「出羽三山めぐり」は芭蕉にとっては大きな負担で、すっかり体調を崩してしまった。旅の途中で体を悪くするのはきわめて辛いことだが、それでも歩みを止めずに羽黒山から鶴岡に行ったのだ。

 鶴岡到着の翌日の十一日は持病がひどくなり、昼頃には連句を中止している。その次の日の十二日、「俳、歌仙終ル」とあるように何とか終了させたが、そんな体の状態にもかかわらず、なおかつ旅をつづけようとしている芭蕉には心底、頭が下がってしまう。

 十三日には鶴岡から酒田に向かっていく。「坂田」とあるのは酒田のことだ。

 この日は佐吉(呂丸)の見送りを受け、鶴岡の内川の河岸から酒田船に乗ったが、「羽黒ヨリ飛脚」とあるように、羽黒山の会覚阿闍梨から浴衣2枚と餞別の発句が飛脚便で届けられた。きっと芭蕉は喜んだことだろう。

「船の上七里、陸五里」とあるように、川船で内川から赤川を経由し、最上川の本流に入り、酒田湊に到着。そこからさらに陸路、酒田の町へ。

 玄順とあるのは医師の伊藤玄順のことで、俳号が潜淵庵不玉。酒田に着けば医者にみてもらえると期待していただけに、留守だとわかったときの芭蕉の落胆ぶりが目に浮かぶ。

 酒田到着の翌日は酒田の豪商であり浦役人の寺島彦助(俳号は詮道)に招かれ、芭蕉の「涼しさや海に入れたる最上川」を発句に詮道や不玉らとの連句の興行がおこなわれた。

 この日はことのほか暑い日で、夜になって医師玄順(不玉)の家に帰っている。

 このときの発句の「涼しさや海に入れたる最上川」が、名句「暑き日を海に入れたり最上川」になっていく。

 

 芭蕉の足跡を追ってカソリはスズキST250を走らせ、鶴岡から国道7号で酒田へ。

 庄内平野越しに見る雲をかぶった月山が目に残る。

 酒田に到着すると、北前船の千石船が出入りした酒田湊の繁栄を象徴するかのような山居倉庫(今でも使われている)を見る。そして山居倉庫の一角にある「庄内米歴史資料館」を見学。つづいて本間家旧本邸、旧鐙屋と見てまわった。

 最後に日和山公園へ。池には酒田に繁栄をもたらした千石船の模型が浮かんでいる。日本海航路をつくり上げた河村瑞賢の像が建っている。芭蕉像も建っている。それとともに、「暑き日を海に入れたり最上川」の芭蕉句碑も建っている。

鶴岡の鶴岡公園を出発

▲鶴岡の鶴岡公園を出発

庄内平野の向こうに雲をかぶった月山を見る

▲庄内平野の向こうに雲をかぶった月山を見る

酒田の山居倉庫

▲酒田の山居倉庫

最上川舟運の小鵜飼舟

▲最上川舟運の小鵜飼舟

酒田の案内図

▲酒田の案内図

「庄内米歴史資料館」を見学

▲「庄内米歴史資料館」を見学

「庄内米歴史資料館」の内部

▲「庄内米歴史資料館」の内部

本間家旧本邸

▲本間家旧本邸

旧鐙屋

▲旧鐙屋

旧鐙屋の外観

▲旧鐙屋の外観

日和山公園の千石船の模型

▲日和山公園の千石船の模型

日和山公園の河村瑞賢像

▲日和山公園の河村瑞賢像

日和山公園の芭蕉像と芭蕉句碑

▲日和山公園の芭蕉像と芭蕉句碑

日和山公園の常夜灯

▲日和山公園の常夜灯

日和山公園の木造六角様式灯台

▲日和山公園の木造六角様式灯台

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