奥の細道紀行[49]
投稿日:2016年10月28日
鳥海山がよく見える
芭蕉は酒田から羽州浜街道で象潟に向かった。今では国道7号で一気に走っていけるようなルートだが、芭蕉の時代は大変な難路だった。
鳥海山から流れ出る日向川を渡ると、庄内海岸の砂丘上を行くような道。浜辺には道標が立っていたとのことだが、風が吹くと砂が舞い、視界がきわめて悪くなったという。まるでサハラ砂漠縦断路のような世界だ。
十里塚の海水浴場、庄内砂丘を越えると吹浦に着く。芭蕉はここでひと晩泊まり、翌日、象潟に向かっていった。
酒田から象潟までの行程は、曽良の「随行日記」では次のようになっている。
十五日 | 象潟ヘ趣。朝ヨリ小雨。吹浦ニ到ル前ヨリ甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。此間六リ、砂浜、渡シ二ツ有。佐吉状届。晩方、番所裏判済。 |
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十六日 | 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。女鹿。是ヨリ難所、馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小屋ニ入テ休。(後略) |
芭蕉は酒田から象潟までは1日で行くつもりだったようだが、山形・秋田県境に近い吹浦に近づく頃から雨が激しくなり、吹浦で1泊している。その間では庄内砂丘を越えたといったが、そのほか、2ヵ所で渡し舟にも乗っている。日向川と吹浦川の渡しだ。このように橋のかかっていない川には、渡し舟があったことがわかる。
吹浦は宿町と横町に分かれていた。
宿町は羽州浜街道の宿場町で、横町は出羽の一の宮、大物忌神社の門前町。芭蕉は宿町の宿に泊ったようだ。
羽黒山の佐吉からの手紙が届き、晩には番所で「裏判済」とあるように通行手形に裏判を押してもらった。今の時代でいうと、国境を越えるときにパスポートに出国印のスタンプを押してもらうようなものだ。
翌日、番所を通過して象潟へと向かっていく。ここから浜街道は砂浜から磯浜へと変わっていく。このあたりは鳥海山が日本海に落ち込むところで、浜街道の大きな難所になっていた。芭蕉はまたしても雨に降られながら歩き、女鹿の集落を通り、難所の三崎峠を越えていく。
ここは今の山形・秋田県境の峠で、国道7号をバイクで走れば、気がつかないうちに越えてしまうような峠だが、当時は羽州浜街道一番の難所になっていた。三崎峠の海岸が三崎。大師崎、不動崎、観音崎の3岬を合わせて三崎といっている。
山形から秋田県側に入ると羽州浜街道の幾つかの集落を通っていく。この地は幕府の直轄領で庄内の大山代官所の支配地だった。
象潟の手前の関は『ツーリングマップル東北』にものっている地名だが、「有耶無耶の関跡」ではないかと曽良は書いている。有耶無耶の関は奥羽最古の関といわれているが、奥羽山脈の笹谷峠にも、その関跡が残っている。
この日も芭蕉は激しい雨に降られ、途中、浜辺の船小屋で雨宿りをしている。そんな思いをしながら昼過ぎに象潟に到着。「随行日記」にある「塩越」は象潟のことだ。
さて、芭蕉の足跡を追って酒田から象潟へとスズキST250を走らせる。
酒田の市街地を抜け出ると、前方には出羽富士の鳥海山が庄内の水田の向こうに横たわっている。そんな鳥海山に向かって突っ走る。鳥海山を眺めながら走るのには、酒田から国道344号で八幡へ。そこから国道345号で県境近くの吹浦へというのはオススメのルートだ。国道7号の東側を走る県道353号からも鳥海山がよく見える。
日向川を渡り吹浦へ。ここでは鳥海温泉「あぽん西浜」の湯に入った。身を清めて吹浦の町中に入り、出羽の一の宮、大物忌神社に参拝。ここは里宮で、鳥海スカイラインで登った鳥海山の登山口には中ノ宮、鳥海山の山頂には本宮がまつられている。
吹浦からは国道7号旧道の日本海沿いの道を行く。
十六羅漢像のある海岸を通り、日本海の湯ノ田温泉前を通り、女鹿の集落に入っていく。ここでは鳥海山の名水が湧き出る「神泉の水」を飲んだ。飲用から洗濯用まで6つの使い分けをしている水飲み場には感動してしまう。
国道7号の新道に合流し、山形・秋田県境の三崎へ。ここではST250を停め、三崎公園の展望台に立ち、断崖が日本海に落ちる三崎の風景を眺めた。展望台の正面には飛島が浮かんでいる。