奥の細道紀行[60]
投稿日:2016年11月19日
鼠ヶ関を越えて新潟へ
芭蕉は羽州浜街道の温海宿を出発すると、「奥羽三関」のひとつ、鼠ヶ関を越えて出羽から越後に入っていく。国道7号の脇には「念珠関址」の碑が建っている。
ところで鼠ヶ関には関所跡が2ヶ所ある。古代の関所跡と近世の関所跡。碑が建っているのは近世の方で、慶長年間(1596年〜1614年)から明治5年(1872年)まで設置されていた。ということで芭蕉が通ったのは近世の関所ということになる。古代の関所を「鼠ヶ関」、近世の関所を「念珠関」と書き分けて区別しているようだ。
こうして芭蕉の越後路の旅がはじまった。といっても、『おくのほそ道』には何も書かれていない。日本海側の府屋、勝木を通り、内陸の中村で泊まっているが、この間のルートは今の国道7号にほぼ沿っている。
鼠ヶ関から府屋、勝木までは羽州浜街道、勝木から中村までは出羽街道の間道になる。
中村というのは今の北中。ここには「芭蕉宿泊の地」と書かれた木標が立っている。出羽街道の旧道沿いには「芭蕉公園」がある。
ところで日本海側の勝木から中村までは出羽街道の間道といったが、本道は中村からほぼ真北へ、雨坂峠→カリヤス峠→小俣峠→堀切峠と峠を越えて出羽に入るルートなのだ。最後の堀切峠は出羽と越後の国境の峠で、国境の山、日本国(555m)の東側になる。「日本国」の山名は何ともユニークで、心ひかれるものがある。日本国の新潟県側の登山口、小俣は出羽街道の宿場町だ。
中村を出発した芭蕉は葡萄峠を越え、村上へと下っていく。その途中の塩野や猿沢は出羽街道の宿駅。こうして村上に到着した芭蕉は旅籠「久左衛門」に泊った。現在の「井筒屋旅館」がその跡だといわれている。村上は15万石の城下町であり、羽州浜街道の宿場町でもある。
温海から村上までの行程は曽良の「随行日記」では次のようになっている。
廿七日 | 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ鼠ヶ関被趣。予ハ湯本へ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及暮、中村ニ宿ス。 |
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廿八日 | 朝晴。中村ヲ立、到葡萄。甚雨降。追付止。申ノ上刻ニ村上ニ着。宿借テ城中へ案内。喜兵・友兵来テ逢。彦左衛門ヲ同道ス。 |
温海から芭蕉は馬で鼠ヶ関に向かっていくが、曽良は湯本へ。今の温海温泉のことだ。「予ハ湯本へ立寄、見物シテ行」とあるが、温海温泉にはとくに見物するものもないので、温泉に入りに行ったということなのだろう。
翌日の葡萄とあるのは葡萄峠下の葡萄の集落のことで、出羽街道の宿場町。城下町の村上に着くと、すぐさま村上城に行っている。
さて、芭蕉の足跡を追って温海を出発。国道7号を南へ。気持ちいい潮風に吹かれながらスズキST250を走らせる。鼠ヶ関で昼食。国道沿いの「番屋」で地元産の「岩ガキ」と「焼き魚定食」を食べた。焼き魚はメバルの塩焼き。鼠ヶ関の海鮮料理にカソリは大満足。そのあと「念珠関址」の碑を見る。そこには詳しく書かれた「念珠関址」の案内板が立っている。
県境を越えて山形県から新潟県に入る。そして日本海側の府屋から勝木へ。ここで国道7号と国道345号が分岐するが、国道7号で中村に行く前に、国道345号で日本海の海岸線を走った。日本海有数の海岸美の「笹川流れ」は絶好のシーサイドコース。日本海の洋上には粟島がはっきりと見える。国道のすぐ左をJRの羽越本線が走っている。
道の駅「笹川流れ」まで行き、絶景を眺めたところで勝木に戻り、国道7号で中村(北中)へ。国道を外れ、旧出羽街道の宿場町をひとまわりし、町外れの旧道沿いにある「芭蕉公園」を歩いた。ここには「旧出羽街道」の案内板が立っているが、それを見ると中村を中心とした出羽街道がよくわかる。
中村から国道7号で村上へ。葡萄峠のトンネルを抜けると一気の下り。道の駅「朝日」の前を通り、三面川を渡って村上の町に入っていった。古い町屋の残る町。老舗の茶屋が目につく。村上は城下町。中世末までは町のどこからでも目につく臥牛山に山城があり、近世以降は譜代大名の城下町になった。
村上といえば三面川の鮭。三面川の河畔にある鮭の博物館「イヨボヤ会館」を見学する。イヨボヤとは「魚の中の魚」で、村上では鮭を意味する。ここでは三面川を登ってくる鮭をガラス越しに見ることができる。三面川の鮭漁の漁具や漁法が展示されている。村上の鮭料理の展示は圧巻。川煮、なわた汁、焼き漬け、卵皮煮、塩焼き、塩ころがし、飯ずし、がじ煮、昆布巻き、氷頭なます、はらこの味噌漬け、はらこの醤油漬けと多彩で、この地に根付いた「鮭食文化」を見る思いがした。