奥の細道紀行[63]
投稿日:2016年11月25日
日蓮や松陰も通った出雲崎
新潟を出発した芭蕉は越中との国境の市振に向かっていくが、その間では弥彦、出雲崎、鉢崎、今町(直江津)、高田、能生に泊っている。そのような越後路のうち、新潟から出雲崎までの間は、曽良の「随行日記」では次のようになっている。
三日 | 快晴。新潟を立。馬高ク、無用之由、源七指図ニヨリ、歩行ス。申ノ下刻、弥彦ニ着ス。宿取テ、明神ヘ参詣。 |
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四日 | 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立。弘智法印像為拝、峠ヨリ右へ半道バカリ行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、西正寺ト云所ヨリ、野積ト云浜ヘ出テ、国上ヘ行道有。荒井ト云塩浜ヨリ壱ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハ、ワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊ノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。 |
ほんとうは新潟を出るときは馬に乗っていきたかったのだが、馬は高いといわれ、歩いていく。芭蕉は行く先々で地元の名士らに世話になっているが、このあたりをみると、けして経済的に楽な旅ではないことがわかる。
新潟から弥彦までは北国街道をたどり、弥彦に着き宿を取ると、越後の一の宮、弥彦神社を参拝している。明神とは弥彦神社のことだ。
翌日は寺泊から出雲崎へ。弥彦から寺泊への道は今の弥彦スカイラインに沿って登り、途中で右折し、西正寺から野積海岸に下っている。野積といえば映画「蔵」の舞台になったところだ。
寺泊から日本海の海沿いの道で出雲崎まで行き、そこで泊まっている。
さー、カソリも新潟を出発。スズキST250で早朝の新潟駅前を走り出す。萬代橋で信濃川を渡り、国道116号→国道402号を行く。そして県道2号に入っていく。この道が芭蕉も歩いた北国街道だ。
北国街道の宿場、赤塚を過ぎたところには、おそらく「奥の細道」にちなんだネーミングなのだろう、「芭蕉ヶ丘霊園」があった。
岩室温泉のある岩室を通り、弥彦へ。ここでは芭蕉の句碑のある宝光院に立寄り、越後の一の宮、弥彦神社を参拝する。堂々とした造りの本殿。その後には弥彦山(635m)がそびえ立っている。その山頂には弥彦神社の奥宮がある。
弥彦からはほんとうは弥彦スカイラインで日本海側に出たかったが、2輪通行禁止とあるので、そのまま県道2号を走り、信濃川の分水沿いの県道159号で日本海に出た。そこからは国道402号を行く。
寺泊ではST250を停めて、「魚の市場通り」を歩いた。魚介類を売る店が何軒も並んでいる。ゆで上げたばかりのズワイガニが色鮮やか!
寺泊から日本海を右手に見ながら国道402号を走り、出雲崎に到着する。ここは北国街道の宿場町。良寛和尚誕生の地としても知られているが、良寛堂に立つと、日本海の水平線上にはうっすらと佐渡が見えている。
町並みの中央には芭蕉にちなんでの「芭蕉園」がある。
そこには、
荒海や 佐渡に横たふ 天の河
の句碑と芭蕉塚がある。
芭蕉は出雲崎では商人宿の「大崎屋」に泊まったとのことだが、その家は「芭蕉園」の前に今でも残っている。
出雲崎は北国街道の重要な宿場だけあって、芭蕉園のかたすみには「北陸街道人物往来史」が掲げられている。8世紀の養老年間にはじまり、明治期まで書き記されている。それには芭蕉はもちろんのこと、日蓮や上杉謙信、伊能忠敬、吉田松陰らが登場する。
明治以降では油脈調査とか油田視察といった石油がらみの項目が目を引く。出雲崎は日本の石油産業発祥の地でもある。
「石油記念館」を見学。明治21年に機械掘りによる石油採掘が成功し、明治24年頃に最盛期を迎えた尼瀬油田が紹介されている。石油採掘用のヤグラが林立している海岸の風景は圧巻だ。
現在の出雲崎の町並みをST250で走り抜けても、かつての石油に生きた町を偲ばせるものは何もないが、この町こそ我らツーリングライダーがいつも世話になる「ENEOS」誕生の地なのだ。
「奥の細道」の芭蕉の足跡を追っていくと、思ってもみないようなことに次々にぶつかる。これが「奥の細道紀行」の大きな魅力になっている。