奥の細道紀行[66]
投稿日:2016年12月1日
立山信仰に触れる
市振を出発した芭蕉は国境の境川を渡って越後から越中に入った。ここは高田藩と加賀藩の藩境にもなっていた。越中に入った芭蕉は北国街道の宿場、泊、入善、三日市、魚津と通り、滑川で一泊している。
「市振→滑川」間の行程は、曽良の「随行日記」では次のようになっている。
十三日 | 市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四五丁有。中・後ノ堺、川有。渡テ越中ノ方、堺村ト云。加賀の番所有。出手形入ノ由。泊ニ至テ、越中ノ名所少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黒部川ヲ越。雨ツヅク時ハ山ノ方ヘ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴。申ノ下刻、滑河ニ着、宿。暑気甚。 |
---|
この日は最後に「暑気甚」とあるように、猛烈に暑い日だった。旅の疲れと暑さにやられ、芭蕉の体調はよくなかった。入善で馬を探したのもそのためで、「人雇テ荷ヲ持せ」とあるように、結局馬はなく、人足に荷物を持たせて黒部川を渡った。芭蕉はそのような厳しい状況の中でも市振から滑河(滑川)まで、1日で10里(約40キロ)を歩いている。強靭な精神力の持ち主だ。
さて、このような芭蕉の足跡を追って市振を出発。スズキST250で国道8号を行く。すぐに道の駅「越後市振の関」に着くが、このあたりが旧玉木村になる。国道8号の信号も「玉ノ木」の表示になっている。
国境の境川をはさんで越後側、越中側に関所があった。
国道8号の境橋で境川を渡り、新潟県から富山県に入る。国道沿いには名物の「たら汁」の看板を掲げた店が目につく。そのうちの一軒、「金森ドライブイン」で「たら汁定食」(700円)を食べた。タラ汁はタラの頭をとり、内臓を取り出し、ぶつ切りにし、コンブでダシをとった汁に味噌で煮込み、ネギを入れただけの素朴な汁。ところが、これがうまい。脂ののった富山湾産のタラの白身と越中味噌が混じり合い、絶妙の味をつくり出している。
北国街道の越中最初の宿場、泊まで来ると、北アルプスの山並みは遠のき、前方には広々とした富山平野の水田地帯が広がっている。いかにも日本の「穀倉地帯」といった風景だ。次の宿場、入善を過ぎると黒部川を渡るが、当時は徒渡。黒部川の川幅を考えると、相当大変な川渡りだったことだろう。入善の次の三日市は今の黒部市の中心街のあたり。さらに国道8号を走り、魚津を通って滑川まで行った。
芭蕉は滑川で一晩泊まり、富山に向かったが、カソリは滑川からは芭蕉の足跡を離れて富山に向かった。県道15号で立山へ。富山平野から常願寺川の谷間に入っていく。平野と谷間の境目にある岩峅寺の雄山神社前立社壇、つづいて芦峅寺(あしくらじ)の雄山神社祈願殿を参拝。雄山神社は越中の一の宮で、立山の山頂に峰本社がある。
雄山神社祈願殿のある芦峅寺は、かつては立山信仰の中心地としておおいに栄えた。江戸時代、加賀前田藩は芦峅寺に手厚い保護を加え、この地の佐伯一族を中心にして33坊と5社人から成る強固な立山一山が組織された。それぞれの坊は全国に「壇那場」と呼ばれる受け持ちの国を持っていた。それぞれの宿坊の主人たちは立山衆徒と呼ばれた。立山衆徒は正月の下旬頃から全国の壇那場を廻り、お札を配った。このとき家来と呼ばれる下僕を1人か2人、連れていった。壇那場では立山信仰を説き、立山に来なさいと立山登山をすすめたのだ。立山の山開きは旧暦の6月15日で、それから2ヵ月の間に全国から6000人を越える人たちが芦峅寺の坊に泊まり、立山の参拝登山をしたという。
立山信仰が衰退するのは明治になってからのこと。神仏分離政策の廃仏毀釈で寺と神社が分けられ、寺々は打ち捨てられ、加賀藩からの寄進もなくなってしまった。日本古来の神仏混淆の立山信仰は大打撃をこうむった。この時期、何千という仏像が売られたり捨てられたりした。そして残ったのが雄山神社の祈願殿ということになる。
亀谷温泉「白樺ハイツ」(入浴料600円)の湯に入ったあと、有料の有峰林道(300円)で大多和峠を越えて富山県から岐阜県に入り、国道41号に下った。高原川に沿って走り、岐阜・富山県境へ。ここで高原川は宮川と合流し、神通川になる。常願寺川から神通川へと越中の大河紀行をしているようなものだ。
国道41号で富山へ。その途中では神通峡温泉「楽今日館」(入浴料600円)の湯に入った。大浴場と露天風呂。神通川のダム湖を見下ろしながら、にごり湯のツルツル湯につかった。
富山に到着すると富山駅前の「東横イン」に泊った。すぐさま富山駅構内で駅弁「ますのすし」(1300円)を買い、それを部屋で食べた。ますずしはぼくの大好物。富山にやってくると、必ずといっていいほどますずしを買って食べる。いい伝えによると、江戸時代中期の享保2年(1717)、富山藩士の吉村新八が考案したという。吉村新八は三代目藩主の前田利与に献上したところ、藩主はたいそう気に入り、富山藩は幕府への献上品にした。ますずしの日もちのよさがそれを可能にしたといえる。ときの徳川八代将軍吉宗はますずしを好み、それ以降、富山の名産品になったのだという。ますずしを食べると、「あー、富山にやってきた!」という実感がする。