奥の細道紀行[71]
投稿日:2016年12月11日
曽良と別れた「山中温泉」
小松を出発した芭蕉は北国街道を南下し、月津宿を通って動橋宿(加賀市)へ。動橋は難解地名で「いぶりばし」になる。そこで北国街道を離れ、山代温泉を経由して山中温泉に向かっていく。
山中温泉は天平年間(729年〜749年)に行基によって発見されたといい伝えられている加賀の名湯だ。芭蕉はここで8日間、滞在している。
温泉に浴す。その効有馬に次ぐという。
山中や菊はたおらぬ湯の匂い
あるじとする者は、久米之助とて、いまだ小童なり。かれが父、俳諧を好み、洛の貞室若輩の昔、ここに来りしころ、風雅に辱しめられて、洛に帰りて貞徳の門人となって世に知らる。功名の後、この一村判詞の料を請けずといふ。今更昔語とはなりぬ。
芭蕉が山中温泉で泊まったのは和泉屋久米之助の家。総湯の近くにあったという。芭蕉はよっぽどこの地が気にいったのだろう、山中温泉を流れる大聖寺川の渓流、鶴仙渓を好んで歩き、ここで山中温泉の旦那衆との酒宴をくりひろげた。
芭蕉が山中温泉に長逗留したのには、もうひとつの理由があった。同行の曽良の体調がすぐれず、ここで治そうとしたようだ。
曽良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、
行き行きて倒れ伏すとも萩の原 曽良
と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の憾み、隻ふの別れて雲に迷うがごとし。予もまた、
今日よりや書付消さん笠の露
このように芭蕉は江戸からずっと一緒に旅してきた曽良と山中温泉で別れることになった。曽良は芭蕉には迷惑をかけたくないと、ひと足先に、大聖寺に向かっていく。芭蕉と曽良は、四国八十八ヵ所めぐりのお遍路さんのように、笠には「同行二人」と書いた笠をかぶっていた。四国のお遍路さんは弘法大師との「同行二人」だが、「奥の細道」では、まさに芭蕉と曽良の「同行二人」だった。その「同行二人」の4文字を露で消すところに、曽良との別離の悲しみが濃くにじみ出ている。
「小松→山中温泉」間の行程は、曽良の「随行日記」では次のようになっている。
廿七日 | 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧ト・志格等来テ留トイヘドモ、立。伊豆尽甚特賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真盛が句也。予・北枝随之。同晩、山中ニ申ノ下刻、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ北ヘ夕立通ル。 |
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廿八日 | 快晴。夕方、薬師堂其外町辺ヲ見ル。夜ニ入、雨降ル。 |
廿九日 | 快晴。 |
晦日 | 快晴。道明が淵。 |
八月朔日 | 快晴。黒谷橋ヘ行。 |
二日 | 快晴。 |
三日 | 雨折々降。及暮、晴。山中故、月不得見。夜中、降ル。 |
四日 | 朝、雨止。巳ノ刻、又降而止。夜ニ入、降。 |
ここで道明が淵とあるのは大聖寺川の淵で、黒谷橋とあるのは大聖寺川にかかる橋のこと。この翌日、芭蕉と別れた曽良は、1人で大聖寺に向かっていく。
芭蕉の足跡を追うカソリは小松駅前の「ハイパーホテル小松」にひと晩泊った。隣り合った食事処「かまど」で夕食。まずは生ビールだ。刺身の盛り合わせを肴にして生ビールをキューッと飲み干すと、ラーメンを食べた。夕食を食べ終わると急に電車に乗りたくなり、小松駅からJR北陸本線で金沢駅まで行き、夜の金沢の町を歩いて小松に戻った。
翌日はスズキのST250を走らせ、北国街道の月津宿、動橋宿を通って大聖寺(加賀市)へ。そこから山代温泉を通って山中温泉へ。山代温泉と山中温泉の間では別所温泉の湯に入り、山中温泉に着くと大聖寺川沿いの「芭蕉の道」を歩いた。「芭蕉の道」の散策を終えると、山中温泉の総湯「菊の湯」に入るのだった。