奥の細道紀行[76]
投稿日:2016年12月19日
芭蕉が一人で歩いた日
芭蕉が松岡を出発し、福井に到着したのは8月11日。今の暦でいえば9月24日のことになる。松岡から福井までは芭蕉の一人旅。この間は10キロほどだが、同行者はいなかった。
芭蕉が江戸の深川を旅立ったのは、元禄2年(1689年)3月27日(陽暦の5月16日)。このあと福井からは今庄、敦賀、木之本、関ヶ原を通って8月21日(陽暦の10月4日)に旅のゴール、大垣に到着するのだが、前回もふれたように全行程156日間の「奥の細道紀行」で8月11日は唯一、芭蕉が一人で歩いた日なのである。
松岡を出発した芭蕉は勝山街道(国道416号)で福井に向かい、志比口から福井の城下に入っている。当時の福井は松平氏25万石の城下町だった。
福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、黄昏の道たどたどし。ここに等栽という古き隠士あり。いづれの年にか江戸に来たるに予を尋ぬ。遥か十年余りなり。いかに老いさらぼひてあるにや、はた死にけるにやと、人に尋ねはべれば、いまだ存命し、そこそこと教ふ。市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔・へちまの延へかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそを隠す。さてはこの内にこそと、門をたたけば、侘しげなる女の出でて、「いづくよりわたりたまう道心の御坊にや。あるじはこのあたり何某といふ者のかたに行きぬ。もし用あらば尋ねたまへ」といふ。かれが妻なるべしと知らぬ。昔物語にこそかかる風情はべれと、やがて尋ね会ひて、その家に二夜泊まりて、名月は敦賀の港にと旅立つ。等栽もともに送らんと、裾をかしうからげて、道の枝折りと浮かれ立つ。
松岡から福井までは「三里(約12キロ)ばかりなれば」とあるように近いので、松岡の天竜寺で夕食を食べてから福井に向かった。いつもは1日40キロ以上歩く芭蕉にとって10キロはたいした距離ではない。その間、芭蕉は繰り返しになるが一人で歩いた。
福井の城下に入ったあとは北国街道を南下し、福井の町中を流れる足羽川を九十九橋で渡り、その南側の一帯にあった洞哉(等栽)の家を訪ねる。
この福井の項は「昔物語にこそかかる風情」とあるように、一編の物語風に描かれている。まさに「奥の細道」の最後の山場といったところだ。
洞哉の家にたどり着いたときの描写がまたいい。
「あやしの小家に夕顔・へちまの延へかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそを隠す」
と、貧乏な一軒家の様子が目に浮かぶようだ。洞哉はよく知られた「古き隠士(隠者)」。清貧を絵に描いたような洞哉の生き方を芭蕉は好み、またそのような生き方に憧れていた。芭蕉と洞哉は出会ったときから意気投合し、洞哉の家で2夜、泊めてもらうことになる。洞哉は極めつけの貧乏暮らしをしていたので、余分な夜具もなく枕もない。近くで建てかけのお堂から材木の木っ端を持って、それを枕がわりにしたという話が伝わっている。洞哉はもともとは福井藩士で江戸詰めのときに芭蕉と知り合った。芭蕉が福井を訪れる3年前、藩主の交代をめぐって領地が半減されて25万石になった。そのリストラで1000人近い武士が職を失い、その中の1人が洞哉だったようだ。
さて、松岡を後にし、スズキST250で芭蕉の足跡を追っていく。
勝山街道の国道416号から国道8号経由で福井の中心街に入り、福井城跡でST250を停めた。城下町の福井は江戸時代、北陸有数の都市。福井城跡は今では本丸を取り囲む堀が残っているぐらいだが、当時は何重もの堀に囲まれた城だった。
福井は路面電車の走る風情のある町だ。北国街道の九十九橋で足羽川を渡ったところに足羽山公園がある。そこには福井藩士の幕末の志士、橋本左内の大きな銅像が建っている。その足羽山公園の片隅には「芭蕉宿泊地碑」も建っている。洞哉の家はこのあたりにあったようだ。
「奥の細道」の「福井」の項の最後がいい。「名月は敦賀の港にと旅立つ。等栽もともに送らんと、裾をかしうからげて、道の枝折りと浮かれ立つ。」
芭蕉と洞哉は敦賀で満月を見ようと2人して福井を旅立ったのだが、洞哉の「裾おかしうからげて、道の枝折りと浮かれ立つ。」とあるのは、とりもなおさず芭蕉の姿そのもので、ここは「奥の細道」の中で唯一、コミカルな感じを漂わせる箇所になっている。
芭蕉と洞哉は浮かれた気分で敦賀に向かった。
さー、福井からは芭蕉&洞哉の足跡を追って敦賀に向かおう。行くぞST250よ!