カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[66]

投稿日:2020年8月15日

九州一周編 14(2017年4月22日)

「魏志倭人伝」に記載された国

 芦辺港を出発。海沿いの県道23号を行く。火力発電所の脇を通り、壱岐随一の海水浴場の清石浜を見ながら走り、原の辻遺跡へ。まずは「一支国博物館」を見学する。一支(いき)国とは壱岐国のことで、原の辻遺跡は一支国の都だったといわれている。

芦辺から県道23号を行く芦辺の火力発電所芦辺の清石浜

芦辺から県道23号を行く 芦辺の火力発電所 芦辺の清石浜

清石浜の砂浜原の辻遺跡の案内図原の辻遺跡の「一支国博物館」

清石浜の砂浜 原の辻遺跡の案内図 原の辻遺跡の「一支国博物館」

「一支国博物館」には原の辻遺跡の復元された模型が展示されている。「魏志倭人伝」のコーナーでは、そこに描かれた「一支国」を紹介。4階の展望室からは原の辻遺跡を一望する。

 つづいて原の辻遺跡の「原の辻一支国王都復元公園」へ。「原の辻ガイダンス」を見学したあと、ジクサー150で原の辻遺跡の周囲をグルリとひとまわりする。そのあとで、一支国の王都跡を歩いた。

 そこには原の辻遺跡について、次のように書かれている。

 九州本土の北岸、玄界灘に浮かぶ壱岐は、古来から対馬とともに中国大陸、朝鮮半島との交易。交渉に重要な役割を果たしてきました。

 中国の3世紀の歴史書「魏志倭人伝」には、「一支国」の名前で登場し、57字の記載がみられます。それによれば、卑狗(ひこ)・卑奴母離(ひなもり)という長官と副長官がおり、島の広さは四方300里、竹や木がおい茂り、3000ばかりの家がある。田畑はあるが、食料が足りず、対馬国と同じように南や北に海を渡って穀物を買い入れて生活していると記述されています。

 原の辻遺跡は、大正時代に地元の研究者によって発見され、昭和の初めのころに学会に紹介されました。戦後には、県や町の教育委員会及び東亜考古学会などによって発掘調査がおこなわれ、大規模遺跡として知られていました。平成5年度以降におこなわれた本格的な調査の結果、我が国を代表する弥生時代の環濠集落で、「一支国」の中心となる王都であることがわかりました。「魏志倭人伝」に記載された国の中で、国の中心が明らかになった初めての遺跡になりました。

 一支国の王都の原の辻は弥生時代前期に誕生し、古墳時代初頭までの600年間、「海上弥生都市」として栄えた。

「一支国博物館」の内部「一支国博物館」の展示原の辻遺跡の復元模型

「一支国博物館」の内部 「一支国博物館」の展示 原の辻遺跡の復元模型

原の辻遺跡の「原の辻ガイダンス」日本最古の「船着き場跡」の模型「船着き場跡」の復元された舟

原の辻遺跡の「原の辻ガイダンス」 日本最古の「船着き場跡」の模型 「船着き場跡」の復元された舟

「壱岐神楽」の展示「壱岐大凧」の展示原の辻遺跡を見る

「壱岐神楽」の展示 「壱岐大凧」の展示 原の辻遺跡を見る

原の辻遺跡を行く原の辻遺跡の中心域原の辻遺跡の復元された高床倉庫

原の辻遺跡を行く 原の辻遺跡の中心域 原の辻遺跡の復元された高床倉庫

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