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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[74]

投稿日:2020年8月26日

九州一周編 22(2017年4月23日)

宋氏が築いた城下町「厳原」

厳原の町に戻ってきた

厳原の町に戻ってきた

厳原の国道328号と県道24号の交差点

厳原の国道328号と県道24号の交差点

厳原の八幡宮神社

厳原の八幡宮神社

厳原の対馬市交流センター

厳原の対馬市交流センター

厳原にはハングルがあふれている

厳原にはハングルがあふれている

厳原の中心街

厳原の中心街

昨夜泊まった厳原の「東横イン」

昨夜泊まった厳原の「東横イン」

「対馬南部一周」を終えて厳原に戻ってきた。厳原は城下町。武家屋敷通りを走り、金石城跡や長屋門、藩校の「日新館」を見る。

「城下町厳原」の案内板には次のように書かれている。

 鎌倉時代、宋氏が旧峰町佐賀から応仁2年(1468年)頃に移館して以来、明治維新まで約380年間の城下町。府中、府内と呼ばれ、維新後、厳原に改称された。移館して以来の行政、文化の中心地。ここには古代にも対馬国の国府が置かれた。

 国境対馬の藩主宋氏の格式は10万石で、その高さが菩提寺万松院の墓地にしのばれる。藩政時代、朝鮮通信使は厳原を経て、藩主の先導で江戸に向かった。文化8年(1811年)の通信使はここ厳原で迎えられた。鎖国時代の日本における海外への窓口は長崎・薩摩・松前のほかに、この対馬も大陸(李氏朝鮮)との文化、貿易の窓口として栄え、釜山には対馬藩士の滞在する倭館が置かれていた。

 厳原の背後の山や丘にある寺社、古城址、町中の橋名、港の波止場等に国境の城下町の歴史が秘められ、史跡が多く、小京都といわれる落ち着いた町である。昔から南北に大通り(馬場筋)が貫通し、その両側には石垣をめぐらせた上級武士の屋敷が建っていた。横丁には一般の武家屋敷が石塀で囲まれ、わずかに昔の城下町がしのばれる。小路は行止りのように見えるが、右や左へかぎ型に曲がっている。外敵を防ぐためだといわれている。

 宋氏発祥の地は旧峰町の佐賀。「対馬北部一周」で、比田勝から東海岸沿いの県道34号で通ったところだ。宋氏は対馬を支配していた阿比留氏を滅ぼし、新たな対馬の支配者になった。

 宋氏は元寇のときには蒙古軍と戦った。文永11年(1274年)10月5日、元軍の多数の艦船が西海岸の佐須浦にやってきた。佐須浦は「対馬南部一周」で通った小茂田の海岸。蒙古軍襲来の急報は、すぐに東海岸の府中(厳原)の宋氏のもとに届けられた。宋氏2代目の宋助国はわずか80余騎の軍勢を引き連れ、佐須浦の浜で1000人ほどの蒙古軍と戦った。助国親子や主だった家臣たちは、ことごとく戦死した。そのような歴史があっても、対馬では江戸時代を通して、宋氏の時代がつづいた。

 厳原のメインストリートに建つ「対馬交流センター」に行ってみる。ここは朝から韓国人旅行者でにぎわっていた。韓国語が飛び交い、看板や横断幕にはハングルがあふれていた。国境の島、対馬は、「ウエルカム・コリアン(韓国人)」一色だ。

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