カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[132]

投稿日:2020年12月3日

東北一周編 18(2017年7月21日)

震災遺構「旧大川小学校」

 雄勝からさらに国道398号を行く。釜谷峠を越え、北上川河畔の旧大川小学校へ。東日本大震災の大津波で74名の児童と10名の教職員が亡くなった悲劇の現場。ここは北上川の河口から5キロの地点だが、10メートルの大津波が遡上した。旧大川小学校は取り壊されることなく、震災遺構として残されている。

国道398号で釜谷峠を越える大津波で多数の児童が亡くなった旧大川小学校旧大川小学校の裏山前に建つ慰霊碑

国道398号で釜谷峠を越える 大津波で多数の児童が亡くなった旧大川小学校 旧大川小学校の裏山前に建つ慰霊碑

旧大川小学校の裏山旧大川小学校の裏山の津波到達地点旧大川小学校に残る壁絵

旧大川小学校の裏山 旧大川小学校の裏山の津波到達地点 旧大川小学校に残る壁絵

岬の大岩が、突然割れた

国道398号の新北上大橋で北上川を渡る

国道398号の新北上大橋で北上川を渡る

 国道398号の新北上大橋で北上川を渡る。この新北上大橋も大津波では落橋し、長期にわたって大迂回しなくてはならなかった。

 きれいに整備された北上川堤防上の道を走り、白浜海岸から白浜岬へ。旧道で岬まで登り、そこから北上川の河口を見下ろした。つづいて相川漁港から金毘羅崎へ。そこには金刀平神社がまつられていた。

 石巻市と南三陸町の境の神割崎は「神割伝説」の岬。ある日、突然、岬の大岩が2つに割れたという。案内板には、その「神割伝説」が次のように書かれている。

 口伝によると、宝暦年間(1751年〜1763年)の昔、横沼の浜辺に大きな鯨が弱りはててよってきたそうだ。浜人たちは天のお授けとばかり、大いに喜び、鯨を分けようとした。ところが場所は十三浜村小瀧(現石巻市北上町十三浜)と戸倉村寺浜(現南三陸町戸倉)の境。常日頃仲良く暮らしていた両地区の住民だったが、欲のために義理人情も忘れ、互いに「この場所は自分たちの村内」と言い張り、一歩も譲らなかった。鯨を目の前にして、三日三晩も争ったそうだ。ついに奉行に訴えたが、さすがに時の奉行(登米奉行)も、にわかのことで裁きかねてしまった。すると不思議なことに三晩目の夜、ものすごい雷雨と同時に横沼の浜方面に落雷があった。翌朝、浜の人たちが横沼の浜に行ってみると、一夜にして横沼の岩は一文字に裂け、磯の境界を示す形になっていた。両浜の浜人たちは神秘に驚き、「是れ正しく神業」と信じ、争いをやめた。鯨も両浜で仲良く分け合い、その割れ目を両村の境界と決めたそうだ。

 宝暦年間というと、宝暦13年(1763年)にはたてつづけに3度、マグニチュード7を超える大地震が三陸で発生している。神割崎の案内板を読みながら、その三陸地震で割れた可能性もあるなと勝手に想像するカソリだった。

 神割崎を後にすると、戸倉で国道45号に合流し、東日本大震災の大津波で町が壊滅した南三陸町の志津川に入っていった。町全体が復興工事の真っ最中だった。

北上川の流れ北上川下流の堤防上の道を走る北上川河口の堤防

北上川の流れ 北上川下流の堤防上の道を走る 北上川河口の堤防

白浜岬から見る北上川の河口金毘羅崎からの眺め神割崎の2つに割れた大岩

白浜岬から見る北上川の河口 金毘羅崎からの眺め 神割崎の2つに割れた大岩

高台に移転した波伝谷の集落南三陸の復興、真っ最中南三陸に残る防災センター

高台に移転した波伝谷の集落 南三陸の復興、真っ最中 南三陸に残る防災センター

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