カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[230]

投稿日:2021年7月12日

北海道一周編 48(2020年4月15日)

探検家、間宮林蔵の足跡

 日本最北端の宗谷岬には、江戸幕府の命を受けて北方探検に赴いた間宮林蔵の像が建っている。間宮林蔵は文化5年(1808年)に間宮海峡を発見し、樺太(サハリン)が島であることを確認した。この発見は当時の世界地図の空白部を埋める偉業であった。

 宗谷岬を出発し、稚内に向かう。オホーツク海から日本海へと海が変わる。それとともに気温が上がり、強烈な寒さから解放された。

 宗谷岬から3キロほど行った宗谷の海岸には、間宮林蔵の「渡樺出港の地」碑が立っている。その案内板には次のように書かれている。

宗谷岬の間宮林蔵像ここは間宮林蔵の「渡樺出港」の地間宮林蔵の「渡樺出港の地」碑

宗谷岬の間宮林蔵像 ここは間宮林蔵の「渡樺出港」の地 間宮林蔵の「渡樺出港の地」碑
 間宮林蔵は2度にわたって樺太を探検しました。

 第1回目は文化5年(1808年)4月13日(新暦5月8日)のことで、松田伝十郎とともに宗谷のこの地を出発。樺太のシラヌシに渡り、間宮海峡の存在を確認すると、閏6月20日(新暦8月11日)に、シラヌシから宗谷に戻ってきました。

 第2回目の出発は宗谷帰着から23日後の7月13日(新暦9月3日)のことで、単身で渡樺した林蔵は6人のアイヌ人を雇い、西海岸を北上。トンナイでひと冬を過ごし、ノテトから交易に向かうニブブ族の一行に同行して大陸のデレンに渡り、その年の晩秋に宗谷に戻ってきました。

 間宮林蔵の足跡は、村上貞助によって「北夷分界余話」、「東韃地方紀行」としてまとめられ、文化8年(1811年)、幕府に提出されました。この2冊は「樺太編」、「大陸編」というべきもので、「北夷分界余話」には樺太の地名や地勢、民俗が、「東韃地方紀行」には清国の仮府が置かれたデレンを中心としたアムール川下流地方の調査が報告されており、現在でも北方アジアを知る貴重な資料になっています。

 間宮林蔵の「渡樺出港」の碑を後にすると、宗谷漁港に寄り、稚内空港前を通り、声問を過ぎ、稚内の市街地に入っていく。稚内港のフェリーターミナルからJR宗谷本線終点の稚内駅へ。日本最北の稚内駅前でジクサー150を止めた。

稚内の町に入っていく稚内港のフェリーターミナル稚内駅前に到着

稚内の町に入っていく 稚内港のフェリーターミナル 稚内駅前に到着

稚内駅は日本最北の駅稚内駅の「日本最北端の線路」碑これが稚内駅の「日本最北端の線路」

稚内駅は日本最北の駅 稚内駅の「日本最北端の線路」碑 これが稚内駅の「日本最北端の線路」

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