カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[274]

投稿日:2022年2月1日

関東一周編 2(2020年5月8日)

相模の国府めぐり(その1)

 東京生まれ、東京育ちのカソリだが、神奈川県伊勢原市に移り住んですでに40年以上になる。ということで相模は我が国といっていい。

「さー、相模編の開始だ!」

 2020年5月8日、伊勢原の自宅を出発。ジクサー150を走らせ、国道246号を行く。厚木を通り、相模川を渡って海老名へ。ここに相模国分寺跡がある。

 小田急の海老名駅前には相模国分寺の七重の塔のモニュメントが建っている。七重の塔は3分の1大の模型だが、なかなかの迫力だ。

 そのあとで、国分寺跡を見てまわった。

 国分寺跡には相模国分寺の金堂跡や講堂跡、七重の塔跡がある。その案内板には復元図が描かれているが、中門から入ると、回廊に囲まれた境内の右手に金堂、左手に七重の塔、正面に講堂がある。講堂の背後には僧房がある。

 広々とした国分寺跡は市民の憩いの場になっている。

 相模の国分寺跡の案内板には次のように書かれている。

 奈良時代、聖武天皇は仏教の力で国の安寧を図るため諸国に国分寺の建立を命じました。相模国分寺もそのひとつで、8世紀後半には建築が始まったとみられます。七重塔と金堂を東西に、講堂を北側に配置する法隆寺に似た建物配置をとり、寺の範囲は東西240m、南北300m以上と諸国の国分寺の中でも有数の規模を誇ります。

 七重塔や僧房などの建物は、多くの瓦が出土していることから瓦葺だったとみられます。瓦は乗越瓦窯(横須賀市)、その後、瓦尾根瓦窯(町田市)などで焼かれたものが使用されています。また、塔跡や金堂跡などの礎石は中津川上流から運ばれています。相模国分寺跡近くの逆川跡は、これらの資材を運ぶために人工的に開削された運河とみられています。

 通常、国分寺は国府の近くに建立されますが、相模国では国府は大住郡(大磯町)、国分寺は国府から12キロも離れた高座郡(海老名市)に置かれました。これは大住郡と高座郡の郡司が壬生氏という同じ氏族であったからではないかとされています。ここから、500mほど北には、相模国分尼寺も置かれ、二寺が並び立つ様子は壮観だったことでしょう。

 相模国分寺は平安時代中頃まではこの場所で存続していたとみられますが、中世には判然としなくなります。江戸時代には現在の東光山国分寺の場所へと移り、その法灯が受け継がれています。

伊勢原を出発。国道246号で海老名へ相模国分寺の七重塔のモニュメント相模国分寺跡にやってきた

伊勢原を出発。国道246号で海老名へ 相模国分寺の七重塔のモニュメント 相模国分寺跡にやってきた

相模国分寺の復元図相模国分寺跡の金堂跡相模国分寺跡の金堂跡を歩く

相模国分寺の復元図 相模国分寺跡の金堂跡 相模国分寺跡の金堂跡を歩く

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