カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

第73回 金沢探訪

投稿日:2011年3月23日

2010年 林道日本一周・西日本編

江戸時代の豪商、銭谷五兵衛と金石の町

 金沢駅前の「東横イン」を出発。さー、「金沢探訪」の開始だ。
 まずは温泉。国道8号沿いの「テルメ金沢」(入浴料1050円)の湯に入る。大浴場には各種湯船。露天風呂もある。まだ6時過ぎだというのに、けっこう多くの人たちが入っている。
 湯から上がるとバイキング(1050円)の朝食。イカ刺、マグロの刺身、サケの焼き魚、干物、明太子…などをおかずにご飯をおかわりして食べた。
「テルメ金沢」からは県道25号で日本海の金石(かないわ)へ。銭五公園に建つ見上げるような銭屋五兵衛像を見る。
 金石は犀川河口の町。江戸時代には金沢の外港として栄えた。当時は「宮の腰」と呼ばれ、北国街道の武蔵辻で分かれる宮の腰往還は重要な街道だった。江戸時代の豪商、銭屋五兵衛、通称「銭五」は宮の腰を本拠地にしていた。
 海運で財を成した銭五は、最盛期には箱館(函館)、松前、青森、弘前、長崎、兵庫、大坂(大阪)、江戸(東京)に支店を置いた。幕府の目をかすめ、ロシア船やアメリカ船と蜜貿易もしたという。
 北海道の一番北、礼文島のスコトン岬の近くで銭五の碑を見たこともある。
 しかし銭五の栄華は短くもはかなかった。加賀藩の派閥争いに巻き込まれ、河北潟の埋め立てが直接のきっかけとなり、一代の豪商、銭屋五兵衛はあえない最期をとげた。
 そんな銭屋五兵衛の銅像の建つ銭五公園から金沢港まで行く。
 岸壁にスズキDR-Z400Sを停め、北国の海を見ながら銭五に思いを馳せた。
 金沢港から金沢駅前に戻り、武蔵辻の交差点に行く。
 そこから浅野川にかかる浅野川大橋へ。そこで折り返し、武蔵辻から香林坊、片町と通り、犀川にかかる犀川大橋まで行く。この道が城下町金沢を貫く北国街道だ。
 再度、武蔵辻に戻ると、今度は金沢城跡の石川門、「日本三名園」で知られる兼六園を歩いた。

城下町の姿を今に伝える金沢

 金沢は日本一の大藩、「加賀百万石」の城下町。江戸時代には江戸(東京)、大坂(大阪)、京都、名古屋に次ぐ大都市になっていた。
 藩政時代、「百万石」というのはもちろん日本最高の石高。それに次ぐのが薩摩73万石、尾張62万石…というのをみても、加賀103万石は突出していた。
 城下町、金沢の中心となる金沢城は、浅野川と犀川、2本の川にはさまれた小立野台(おだちのだい)の先端にある。ここは2本の川が天然の堀の役割をはたす要害の地だ。
 金沢の町にはT字路やクランク型の鉤型路、袋小路が多い。道幅は狭く、少しづつ曲がっている。バイクで走るとよくわかるが、まるで迷路を行くようで、しばしば道を間違えてしまう。
 また、浅野川と犀川、2本の川を越えた城下町の外郭に寺院を集め、寺町をつくった。寺町は城下町金沢の防衛最前線基地といった機能も持っていた。このように金沢という町は敵の侵入を想定してつくられた、戦略本位の城下町なのである。
 金沢の町としての歴史は、文明3年(1471年)までさかのぼる。この地に御山御坊と呼ばれる一向宗の道場ができたのが金沢の町のはじまりになっている。そもそもは宗教都市だった。
 天正8年(1580年)の一向一揆のとき、織田信長の家臣、佐久間盛政がこの地を攻略して尾山城を築き、城の西側に8つの町をつくった。この「尾山八町」が金沢では一番古い町々になっている。
 佐久間盛政は賎ヶ岳の合戦(1583年)では柴田勝家軍につき、豊臣秀吉軍に破れて戦死した。そのあと前田利家が入城し、尾山城を金沢城と改め、町名も金沢になった。
 それ以降、明治になるまで前田家14代の支配になる。金沢と前田は切っても切れない関係だ。
 前田利家は城づくりの名人といわれた高山右近に命じ、本格的な築城をおこなった。それについで2代目の利長が大改修をおこない、3代目の利常の頃には、ほぼ今日の金沢の中心となる市街地が形成された。
 明治以降、金沢には大火もなく、また戦災にもあわなかったので、藩政時代の城下町の典型的な姿がそのまま残されている。そういう意味では金沢は、町全体が一大文化財のようなものだ。

芭蕉ゆかりの寺もある寺町へ

 石川門と兼六園を見ると、犀川の対岸にある寺町へ。
 そこには全部で70以上もの寺があるが、小路に入り、願念寺に行った。ここは芭蕉の「奥の細道」ゆかりの地。
「おくのほそ道」の金沢の項には次のように書かれている。

 卯の花山・倶利伽羅が谷を越えて、金沢は七月中の五日なり。ここに大坂より通う商人何処という者あり。それが旅宿をともにす。
 一笑という者は、この道に好ける名のほのぼの聞こえて、世に知る人もはべりしに、去年の冬葉早世したりとて、その兄追善を催すに、
  塚も動けわが泣く声は秋の風
    ある草庵にいざなわれて
  秋涼し手ごとにむけや爪茄子
    途中吟
  あかあかと日はつれなくも秋の風

 加越(加賀・越中)国境の倶利伽羅峠を越えた芭蕉は津幡に下り、そこから浅野川にかかる浅野川大橋を渡って金沢城下に入り、尾張町の旅籠京屋吉兵衛に泊った。
 宿に着くとすぐに、俳人の一笑に連絡すると、前年の12月6日に若くして死んだと聞かされた。一笑の死を知らなかった芭蕉の驚きと悲しみは大きく、それが「塚も動けわが泣く声は秋の風」になっている。
 その後、芭蕉は金沢には8日、滞在している。
 犀川を渡った願念寺には一笑の墓がある。寺の入口には芭蕉の「塚も動け…」の句碑が建っている。
 芭蕉は「奥の細道」の旅では、一笑との出会いを大きな楽しみにしていた。一笑もそれを待ち望んでいた。そんな願いがかなわなかった芭蕉は、一笑の墓前に「塚も動け…」の句を手向けた。この句は金沢滞在中に、一笑の兄が願念寺で主催した追善の句会で詠んだものだという。そのような歴史を秘めた願念寺は今ひっそりと静まりかえり、境内には人影もない。
 願念寺の参拝を終えると、金沢を離れた。もう一度、犀川大橋を渡り、片町、香林坊、武蔵辻と走り、浅野川大橋を渡り、国道359号→国道304号で石川・富山県境の高窪峠に向かった。

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フォトアルバム

「テルメ金沢」の朝湯に入る
「テルメ金沢」の朝食


銭五公園の銭屋五兵衛像
金沢港


金沢城跡の石川門
兼六園


香林坊の交差点
北国街道の片町交差点


願念寺入口の芭蕉句碑
願念寺の本堂


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