カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥の細道紀行[5]

投稿日:2016年7月23日

江戸より九里あまり

埼玉県春日部市/2009年

 日光街道の草加宿から越谷宿へ。越谷宿の「ガスト」で朝食を食べ、大沢町宿と通り、国道4号の旧道で粕壁宿(春日部)に入っていく。といっても日光街道の宿場の風情はどこにも残っていないが。

 千住から春日部まではスズキST250のメーターでは34キロになった。芭蕉は「奥の細道」の第1日目はここ粕壁宿で泊まっているが、当時の旅人は1日10里、約40キロぐらいは歩いた。深川から千住までは隅田川の舟に乗った時間もあるので、「まあ、こんなものか」といった平均的な距離といえる。

 国道16号との交差点の手前には芭蕉が泊まったといい伝えられている東陽寺がある。本堂の前には芭蕉碑。それには曽良の「随行日記」、「廿七日夜 カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。」の一文が彫られ、旅姿の芭蕉と曽良が描かれている。

 なお春日部だが、江戸時代は「粕壁宿」だった。明治22年に町になったときも「粕壁町」だった。今でも春日部の中心、春日部駅周辺の地名は粕壁だ。

 粕壁宿からさらに国道4号の旧道を行く。杉戸宿、幸手宿、栗橋宿と通り、利根川を渡り、古河宿へ。江戸時代には栗橋に関が置かれた。関を出たところが船着場で、渡し舟に乗って対岸に渡った。

 ところで古河は紛らわしいのだが、茨城県になる。群馬と栃木の県境に接しているので、正確に茨城県だといえる人は少ない。米子が鳥取県だったか島根県だったか、迷うようなものだ。

 国道4号の旧道で利根川橋を渡って茨城県に入ったところが中田。日光街道の中田宿跡といったところで、地名だけが残っている。そして古河宿を走り過ぎたところで県境を越え、栃木県に入っていく。

 最初は野木宿、次が間々田宿。春日部から間々田まではちょうど40キロ。芭蕉は「奥の細道」の第2日目で、ここ間々田宿で泊まった。間々田には奥州街道の面影は残っていないが、JR宇都宮線の間々田駅まで行き、駅前にST250を停め、当時を偲んでみるのだった。

 間々田からさらに北へ。小山温泉「やすらぎの湯」(入浴料500円)に入り、夕食の刺身定食(980円)を食べ、小山宿に入っていく。JR小山駅東口の「東横イン」に泊まった。芭蕉の2日分以上の行程をST250で1日で走ったことになる。

越谷の「ガスト」で朝食

▲越谷の「ガスト」で朝食

春日部の東陽寺の芭蕉碑

▲春日部の東陽寺の芭蕉碑

日光街道の杉戸宿に入っていく

▲日光街道の杉戸宿に入っていく

日光街道の杉戸宿の旧家

▲日光街道の杉戸宿の旧家

日光街道の幸手宿

▲日光街道の幸手宿

日光街道の栗橋宿の旧家

▲日光街道の栗橋宿の旧家

利根川を渡る

▲利根川を渡る

日光街道の古河宿

▲日光街道の古河宿

茨城県から栃木県に入る

▲茨城県から栃木県に入る

JR間々田駅前で

▲JR間々田駅前で

「やすらぎの湯」の「刺身定食」

▲「やすらぎの湯」の「刺身定食」

小山宿の小山宿通り

▲小山宿の小山宿通り

小山の「東横イン」に泊まる

▲小山の「東横イン」に泊まる

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