奥の細道紀行[7]
投稿日:2016年7月27日
東照宮を参拝
今市から日光街道で日光へ。この間には見事な杉並木が残っている。
日光に到着。ここは日光街道の終点。東照宮の門前町、鉢石は日光街道終点の鉢石宿でもある。日光といえば「ゆば料理」。老舗の「恵比寿屋」でコースを食べた。揚巻ゆばの野菜あんかけ、揚巻ゆばと里芋のゆず味噌田楽、平ゆば、それと野菜の天ぷら。「ゆば三昧」の食事に大満足だ。
鉢石の街並みを抜け出ると、大谷川にかかる神橋を見、輪王寺、東照宮、二荒山神社と見てまわる。この二社一寺めぐりが日光のハイライト。「日光見ずして結構というなかれ」の真髄がここに凝縮されている。
輪王寺は日光で一番古い寺。開基は1200年以上も前のことで、比叡山や東叡山とともに天台宗の三大本山になっている。最盛期には300余の堂宇があり、5000人もの僧侶がいたという。
二社一寺の共通拝観券で、まずは輪王寺本堂の三仏堂を参拝。堂内には阿弥陀如来と千手観音、馬頭観音がまつられている。
次は東照宮。芭蕉も東照宮の参拝を大きな目的として日光にやってきた。鳥居をくぐり抜けると、左手には高さ35メートルの五重塔。文政元年(1818年)の建造で、東照宮の中では一番新しい建物だが、その均整のとれた美しさには目を奪われる。神厩舎の「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を見、陽明門へ。東照宮を代表する建造物で、大勢の観光客がここで立ち止まる。見事な彫刻の数々。徳川家康をまつる東照宮だが、「家康の威光、ここにあり!」といった陽明門をくぐり、拝殿、本殿と見てまわる。
最後は下野国一宮の二荒山神社を参拝。大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の3神をまつっている。中禅寺湖畔には中宮があり、男体山の山頂には奥宮がある。二荒山というのは日光のシンボル、標高2484メートルの別名。「ふたら」というのは補陀落からきたもので、観音浄土から命名されたもの。その「二荒」の音読が「にっこう」で、「日光」の2文字が当てられた。
芭蕉は東照宮の参拝を終えると、ひと晩、鉢石に泊まり、翌日は裏見ノ滝を見に行った。東照宮でよく知られる日光だが、ここはまた「日光四十八滝」とか「日光七十二滝」といわれるほどの名瀑の地。その中でもこの裏見ノ滝と霧降ノ滝、華厳ノ滝は「日光三名瀑」に数えられている。
卯月朔日、御山に詣拝す。この御山を『二荒山』と書きしを、空海大師開基の時、『日光』と改めたまう。千歳未来を悟りたまふにや、今この御光一天にかがやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏やかなり。なお憚り多くて、筆さし置きぬ。
あらたふと 青葉若葉の 日の光
黒髪山は、霞かかりて、雪いまだ白し。
剃り捨てて 黒髪山に 衣更 曽良
曽良は、川合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒を並べて、予が薪水の労を助く。このたび、松島・象潟の眺めともにせんことを喜び、かつは羇旅の難をいたはらんと、旅立つ暁、髪を剃りて、墨染にさまを変え、惣五郎を改めて宗悟とす。よって黒髪山の句あり。『衣更』の二字、力ありて聞こゆ。
二十町山を登って、滝あり。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。岩窟に身をひそめて滝の裏より見れば、裏見の滝と申し伝えはべるなり。
しばらくは 滝にこもるや 夏の初め
日光での芭蕉の行程を曽良は次のように「随行日記」に書いている。
一、 | 四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上剋、宿ヲ出。止テハ折々小雨。終曇。午ノ剋、日光ヘ着。雨止。清水寺ノ書、養源院ヘ届、大楽院ヘ使僧ヲ被添。折節大楽院客有之、未ノ下剋迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。 | |
---|---|---|
一、 | 同二日 天気快晴。辰ノ中剋、宿ヲ出。ウラ見ノ滝・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午、鉢石を立、奈須大田原ヘ趣。後略 |