奥の細道紀行[24]
投稿日:2016年9月1日
仙台での足跡を追う
仙台の中心街の「芭蕉の辻」を出発点にして、スズキST250を走らせ、芭蕉の足跡を追った。
まずは亀岡八幡宮だ。時代を感じさせる334段の長い石段を登り、拝殿、本殿を参拝。ここは青葉城の北西になり、もともとは城内にあったようだ。国道48号の青葉山トンネルの上に位置している。緑豊かな自然に囲まれた亀岡八幡宮は東北一の大都市、仙台にいるのを忘れさせてしまうほどだ。
亀岡八幡宮は鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したといい伝えられているが、当時の社殿は権現造りの立派なものだった。随身門もあったが、昭和20年(1945年)の仙台大空襲で焼け、今は寂れた感が漂っている。
次に仙台東照宮へ。JR仙山線の東照宮駅のすぐ近くにある。
ここに東照宮を勧請したのは伊達藩2代目の忠宗で、3代将軍家光の許しを得て承応3年(1654年)に建立した。日光東照宮のような華やかさはないが、入母屋造りの随身門は堂々としたもので、国指定の重要文化財になっている。
つづいて榴岡公園へ。広々とした公園で仙台市民の憩いの場になっている。その一角にある「仙台市歴史民俗資料館」を見学。この建物は旧陸軍歩兵第四連隊の兵舎で、現存する宮城県内最古の洋風木造建築だという。「芭蕉の辻」の古い写真や芭蕉の資料などが展示されている。そのあと噴水のある公園をぷらぷら歩き、榴岡公園の近くにある榴岡天満宮を参拝する。榴岡天満宮は東照宮建立のため、この地に移されたとのことで、境内には芭蕉の句碑がある。
最後は陸奥国の国分寺。他国同様、陸奥国の国分寺も衰退したが、慶長12年(1607年)、伊達政宗が薬師堂を再建。それ以降、仁王門、鐘楼、坊などが造営された。しかし明治以降はすっかり廃れてしまった。山門(仁王門)をくぐり、本堂の薬師堂を参拝したが、今の国分寺には寂しさが漂っている。
案内板にはこのように陸奥国の国分寺についての詳しい説明が書かれており、伽藍の想像模型の写真が添えられている。なおこの模型の実物は仙台市博物館で見られるようだ。
仙台滞在中の芭蕉の行程は「曽良の随行日記」では次ぎのようになっている。
五日 | 橋本善衛門殿へ之状、翁持参。山口与次衛門丈ニテ宿へ断有。須か川吾妻五良七ヨリ之状、私持参、大町弐丁目、泉屋彦兵ヘ内、甚兵衛方へ届。甚兵衛留守。其後、此方ヘ見廻、逢也。三千風尋ルニ不知。其後、北野や加衛門ニ逢、委知ル。 |
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六日 | 天気能。亀が岡八幡ヘ詣。城の追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶室へ入、止テ帰る。 |
七日 | 快晴。加衛門同道ニテ権現宮(東照宮)を拝、玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神へ詣、木の下へ行。薬師堂、古へ国分寺之跡也。帰り曇。夜ニ入、加衛門・甚兵ヘ入来。冊尺横物一幅づゝ翁書給。ほし飯一袋・わらじ二足、加衛門持参。翌朝、のり壱包持参。夜ニ降。 |
七日の夜というのは芭蕉が仙台を出発する前夜のことで、加衛門(加右衛門)と甚兵(和泉屋甚兵衛)が宿にやってきた。芭蕉は記念に甚兵には「笠島はいづこさ月のぬかり道」の句・前書と短冊1枚、加衛門には「早乙女にしかた望んしのぶ摺」の句・前書と短冊2枚を書いて与えた。このとき加衛門は干飯1袋と草鞋2足、翌朝は気仙沼産の海苔1包を餞別として芭蕉に手渡した。芭蕉は加衛門の贈った草鞋をことのほか喜び、
あやめ草足に結ばん草鞋の緒
の句を詠んだ。