奥の細道紀行[28]
投稿日:2016年9月9日
芭蕉の想いを想像する
松島からは石巻街道の国道45号を行く。石巻街道の高城宿を通り、鳴瀬川を渡ると小野宿。さらに矢本宿を通り、石巻の市街地に入っていく。
石巻に到着すると、町中を走り抜け、日和山に行く。そこには「おくのほそ道紀行三百年記念」の芭蕉&曽良の像が建っている。曽良が芭蕉の背中を押して歩いている像。旅の辛さ、苦しさが伝わってくるようだ。台座には「奥の細道」のルート図が描かれている。
日和山の一帯は日和山公園になっているが、ここは中世の石巻城址。案内板には次のように書かれている。
日和山の山頂には鹿島御児神社がまつられているが、そこからの眺めは絶景だ。旧北上川が石巻湾に流れ出ている。河口にかかる日和橋が正面に見え、海上には石巻湾に浮かぶ田代島と網地島が見える。左手には牡鹿半島の山並みが長々と連なっている。
十二日、平泉と志し、姉歯の松・緒絶えの橋など聞き伝えて、人跡まれに、雉兎すうぜんの行きかう道そことも分かず、ついに道踏みたがえて石の巻という港に出づ。「こがね花咲く」とよみて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどい、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。思いかけずかかる所にも来れるかなと、宿借らんとすれど、さらに宿貸す人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道迷い行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などよそ目に見て、遥かなる堤を行く。心細き長沼に添うて、戸伊摩という所に一宿して、平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。
「道踏みたがえて石の巻という港に出づ」
といってるが、街道を知り尽くしていた芭蕉なので、道を間違えて石巻まで行ってしまったということはありえない。どうしても石巻の町、石巻の港を見たかったのだ。構成の妙とでもいおうか、たまたま道を間違えて行ってしまった石巻はとんでもなくにぎやかな町、港だったということを強調したかったのだろう。
芭蕉当時の石巻港は太平洋航路の東廻り航路(銚子沖から江戸へ)が河村瑞賢によって開発された後のことで、「数百の廻船入江につどい」とあるように、石巻港はたいへんな賑わいだった。石巻の町も「人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり」と活気に満ちあふれていた。きっと芭蕉にとっては石巻の繁栄は想像以上だったのだろう。
それと「金華山、海上に見渡し」とあるが、石巻からは左手の牡鹿半島が邪魔して、金華山は見えない。日和山からも同様で、田代島、網地島の左手にかろうじて牡鹿半島南端の黒崎が見える程度。日和山から金華山までは直線距離で43キロある。
だが芭蕉はどうしてもここで「陸奥山(みちのくやま)の黄金花咲」の金華山を入れたかったのだ。ほんとうは金華山にも渡りたかったことだろう。石巻に到着した日、日和山から「袖の渡り」に行っているが、昔はここから金華山への船が出ていた。
旅に出ると、次々と新しい世界を目にするものだ。するとますますいろいろなところに行ってみたくなるものだ。芭蕉も同じだったと思う。「袖の渡り」で「金華山に行ってみたい!」と心をかき乱される芭蕉の姿が容易に想像できるのだった。
松島から石巻までの行程を曽良の「随行日記」で見てみよう。
十日 | 快晴。松嶋立。馬次、高城村、小野、石巻。仙台ヨリ十三里余。小野ト石巻の間、矢本新田ト云町ニテ咽乾、家毎ニ湯乞共不与。道行人、年五十七八、此躰ヲ憐テ、知人ノ方ヘ壱町程立帰、同道シテ湯を可与由ヲ頼。又、石ノ巻ニテ新田町四兵へと尋、宿可借之由云テ去。名ヲ問、ねこ村コンノ源太左衛門殿。如教、四兵ヘヲ尋テ宿ス。着ノ後、小雨。頓テ止。日和山と云へ上。石ノ巻中不残見ゆル。奥ノ海・遠嶋・尾鮫ノ牧山、眼前也。真野萱原も少し見ゆル。帰ニ住吉ノ社参詣、袖ノ渡、鳥居ノ前也。 |
---|
旅の辛さがヒシヒシと伝わってくるのは、湯を乞うシーンだ。水ではなく湯をもらえないかと頼んでいるのは、おそらく芭蕉は腹をこわしたからだろ。そんなときにねこ(根古)村の今野源太左衛門に出会い、そのおかげで湯を飲むことができたし、石巻の宿にも泊まることができた。旅先で出会う人の人情ほどありがたいものはない。