奥の細道紀行[50]
投稿日:2016年10月30日
芭蕉絶賛の象潟
江山水陸の風光を尽くして、今象潟に方寸を責む。酒田の港より東北のかた、山を越え、磯を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山隠る。闇中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色またたのしきものと、あまの苦屋に膝入れて、雨の晴るるを待つ。その朝、天よくはれて、朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まず能因島に舟寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、向かうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」とよまれし桜の老の木、西行法師の記念を残す。江上に御陵あり。神功皇后の御墓という。寺を干満珠寺という。この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天を支え、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通ふ道遥かに、海北にかまえて、波うち入るる所を汐越といふ。江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴脛ぬれて海涼し
祭礼
象潟や料理何食ふ神祭り 曽良
あまの家や戸板を敷きて夕涼み 低耳(美濃の国の商人)
岩上にみ鳩の巣を見る
波越えぬ契りありてやみ鳩の巣
芭蕉は「江山水陸の風光を尽くして」と、象潟を絶賛している。まるでここが「奥の細道」のゴールといってもいいような書き方で、象潟の描写にはひときわ熱が入っている。
とくに印象深いのは干満珠寺から見た風景だ。
「この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天を支え、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通う道遥かに、海北にかまえて、波うち入るる所を汐越という」
この1節は『おくのほそ道』を通しても一、二の名文だ。「むやむやの関」とあるのは前回ふれた「有耶無耶の関」のことである。
山形県の酒田からスズキST250を走らせ、県境を越えて秋田県に入り、象潟に到着した。ここは『奥の細道』のクライマックスシーンといってもいいようなところで、「奥の細道」最北の地になる。
象潟に到着すると、まっさきに蚶満寺に行った。この寺が芭蕉の時代の干満珠寺になる。境内には芭蕉像と絶世の美女、西施像が建っている。しかし今では『おくのほそ道』にあるような風景は見られない。象潟が潟でなくなってしまったからだ。
なんとも残念なことだが、文化元年(1804年)の象潟地震でこの一帯は隆起し、「江の縦横一里ばかり」とある潟が陸地になってしまった。
蚶満寺の境内には舟つなぎ石が残されているが、それが当時は潟の岸辺にある寺だったことを証明している。またここからはポコッ、ポコッと盛り上がった小丘をいくつも見るが、それが当時の九十九島。今では稲田の中に浮かんでいる。象潟の郷土資料館に行くと、大地震以前の復元された模型が展示されている。それを見ていると、あらためて、
「残念…」
という気持ちがわき上がってくる。
芭蕉は「松島は笑うがごとく、象潟は憾がごとし」といっているが、まさにそのとおりなのだ。松島は「奥の細道」ブームも手伝って、押すな押すなの大盛況。瑞巌寺や五大堂などは、人をかきわけて歩くようだった。それにひきかえ、潟でなくなってしまった象潟はまるで忘れ去られたかのような存在で、訪れる人も少ない。
松島と象潟は、何とも対照的な「奥の細道」のハイライト的な2地点なのである。