奥の細道紀行[57]
投稿日:2016年11月13日
鳥海山は雲の中
さ〜、象潟からはまた芭蕉の足跡を追っていく。
「奥の細道」最北の地、象潟から芭蕉は酒田に戻っていくのだが、『おくのほそ道』には、その間の記述はない。
曽良の「随行日記」でも次ぎのような簡単な記述で終っている。
十八日 | 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山の晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。 |
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橋というのは象潟橋のことで、そこから迫ってくるような鳥海山を見た。象潟が潟だったころは、それはすばらしい眺めだったことだろう。
象潟から酒田の間では難所の三崎峠を越えなくてならないが、曽良の「随行日記」にはまったく三崎峠越えのことがふれられていないので、象潟から海路、酒田に行ったといわれている。
「アイ風吹テ山海快」とあるが、「アイの風」は海路の順風で、海、山の眺めはクリアで、快適な船旅だったと読み取れる。
そんな芭蕉の足跡を追って、カソリも相棒のスズキST250を走らせて酒田へ。
象潟温泉「サン・ねむの木」を出発すると象潟駅へ。そこでは象潟が「潟」だった頃の絵を見る。まさに絶景。象潟には九十九島の小島が浮かび、鳥海山がそれに迫るようにしてそそり立っている。
文化元年(1804年)6月4日の象潟地震では、土地が約2・4メートル隆起したとのことで、一夜にしてこの絵にあるような潟は消滅し、小丘と沼のある湿地の風景に変わってしまった…。つづいて象潟の古い町並みを走り、象潟漁港まで行った。
象潟からは鳥海山の中腹を縫う鳥海ブルーラインへ。その入口近くにある奈曽の白滝を見る。高さ26メートル、幅11メートルの優美な滝。金峰神社のご神体になっている。
この日の天気は日本海にはまったく雲もなく、海上の飛島ははっきりと見えているのに、鳥海山には麓近くまで雲がかかっていた。その雲の中に突入して鳥海ブルーラインを走る。芭蕉は晴嵐の鳥海山を見たが、カソリはほとんど視界ゼロの鳥海山を見る。
秋田県側の鳥海山登山口、鉾立の展望台も濃霧に覆われ、何も見えない。県境を越えて山形県側に入り、日本海に下っていってもほとんど視界がないまま、鳥海ブルーラインを走り終えた。
国道7号を横切り、国道7号の旧道の国道345号で日本海に出ると、日本海の海上はきれいに晴渡っていた。日本海は晴、鳥海山は濃霧という対照的な天気だった。
「酒田→象潟」の往路でも寄った女鹿の集落に入っていく。そこには鳥海山の名水「神泉(かみこ)の水」がある。膨大な水量の湧水を引いたもので、飲用から洗濯用まで6つの使い分けをしているところがすごい。まさに女鹿のみなさんにとっては「神泉」。豊かな水の国、日本をしみじみと感じさせる光景だ。
女鹿から日本海沿いに南下。吹浦に出ると、往路のときも立ち寄った出羽の一の宮、大物忌神社の里宮を参拝し、海沿いの鳥海温泉の共同湯「あぽん西浜」(入浴料350円)に入り、国道7号で酒田へ。
酒田に着くと、飛島航路のターミナルビル内にある「海鮮どんや とびしま」で昼食にする。「海鮮丼」(1050円)を食べたが、安くて旨かった。
芭蕉は18日の夕刻、酒田に到着すると、そのあと25日に出発するまでの1週間、酒田に滞在するが、その間のことは『おくのほそ道』では1行もふれられていない。
曽良の「随行日記」では次のようになっている。
十九日 | 快晴。三吟始。明廿日、寺嶋彦助江戸へ被趣ニ因テ状認。翁ヨリ杉風、又鳴海寂照・越人ヘ被遣。予、杉風・深川長政へ遣ス。 |
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廿日 | 快晴。三吟。 |
廿一日 | 快晴。夕方曇。夜ニ入、村雨シテ止。三吟終。 |
廿ニ日 | 曇。夕方晴。 |
廿三日 | 晴。近江屋三良兵衛ヘ被招。夜ニ入 即興ノ発句有。 |
廿四日 | 朝晴。夕ヨリ夜半迄雨降ル。 |
酒田でこの間、芭蕉は伊藤玄順の家に滞在していたといわれている。