奥の細道紀行[59]
投稿日:2016年11月17日
北陸道を南下する
「奥の細道紀行」も今回からは「北陸編」だ。芭蕉は酒田を出発すると日本海側を南下していく。鼠ヶ関を越えて越後路に入り、さらに市振の関を越えて越中路に入っていく。しかし『おくのほそ道』には、その間の記述はほとんどない。
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡に横たふ天の河
このようにほとんど無視といっていいくらいの記述で越後から越中に入っていくのだが、それまでの丹念に書いてきた奥州路、羽州路の記述とは大違いだ。もちろん「病おこりて事しるさず」とあるように、体調の悪さがその理由のひとつだろうが、「象潟」という旅のクライマックスシーンを過ぎてしまったもの悲しさがそこにはうかがえる。
その中にあって、「荒海や佐渡に横たふ天の河」の燦然と輝く名句があるのが大きな救いになっている。
ということで酒田からは曽良の「随行日記」をより重視して芭蕉の足跡を追っていくことにする。
酒田から山形・新潟の県境に近い温海までは次ぎのようになっている。
廿五日 | 酒田立。船橋迄被送。袖ノ浦、向也。不玉父子・徳左・四良右・不白・近江屋三良兵・加賀屋藤右・宮部弥三郎等也。未ノ刻、大山ニ着。状添テ義左衛門方ニ宿。夜雨降。 |
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廿六日 | 晴。大山ヲ立。浜中ヨリ大山へ三里近し。大山ヨリ三瀬ヘ三里十六丁。三瀬ヨリ温海ヘ三里半。此内、小波渡・潟苔沢辺ニ鬼かけ橋・立岩、色々ノ岩組景地有。未ノ刻、温海ニ着。鈴木所左衛門宅ニ宿。弥三郎添状有。少手前ヨリ小雨。及暮、大雨。夜中、不止。 |
さー、芭蕉の足跡を追って酒田を出発だ。雲ひとつない快晴の青空。ST250を走らせ、まずは酒田の郊外へ。庄内平野の稲田越しにそびえる鳥海山を見に行った。
酒田の中心街に戻ると、最上川にかかる一番、下流の橋、国道112号の出羽大橋を渡って対岸へ。川沿いに河口に向かっていくと、海岸一帯は砂丘地帯になっている。そこには風力発電の風車が立っていた。
国道112号で庄内海岸を南下。防風・防砂の松林がつづく。羽州浜街道の浜中宿を通り過ぎると、庄内空港の滑走路の下をくぐり抜けていく。
七窪から馬町を通って羽州浜街道の大山宿へ。これがおおよその芭蕉の足跡。JR陸羽本線の羽前大山駅前でST250を停めたが、芭蕉はここでひと晩、泊っている。
大山宿からは県道38号経由で国道7号に出た。そして由良峠を越えて日本海側の由良へ。今でこそ簡単に越えてしまう由良峠だが、芭蕉の時代には「山賊峠」といわれるほどの大変な難所だったようだ。
由良からは国道7号を南下。曽良の「随行日記」にも出てくる羽州浜街道の三瀬宿を通り、日本海に突き出た波渡崎でST250を停め、鳥海山を見る。これが最後の鳥海山。この岬を過ぎると、もう鳥海山は見えない。
五十川ではいったん国道7号を離れ、五十川沿いに上流へ。山五十川の集落には、地元のみなさんは「これぞ、日本一の大杉」と自慢している「玉杉」を見る。神々しいほどの大杉でまるで神が宿っているかのようだった。
日本海側の五十川に戻ると、ふたたび国道7号を南下。曽良の「随行日記」にもある「立岩」はひときわ目立つ大岩。そのすぐ近くにある「立岩海底温泉」の湯に入り、国道7号旧道沿いの羽州浜街道の温海宿に入っていった。温海宿からは温海川に沿って温海温泉に行き、共同浴場の「正面湯」に入った。
温海宿は芭蕉の泊まったところ。大山宿では義左衛門宅、温海宿では鈴木所左衛門宅と、芭蕉は酒田で出会った有力者たちの紹介状を持って泊めてもらっている。
温海宿で泊った夜は、ひと晩中、大雨が降りつづいたという。これも旅の厳しさをうかがわせるような話だ。