奥の細道紀行[65]
投稿日:2016年11月29日
越後路の名場面「市振」へ
高田を出発した芭蕉は谷浜、名立と日本海沿いの北国街道を行き、能生で一泊する。翌日は糸魚川から北国街道最大の難所、子不知・親不知を通り抜け、越後路最後の市振宿で泊っている。そこではドラマが待っていた。
今日は親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどといふ北国一の難所を越えて疲れはべれば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面のかたに、若き女の声、ふたりばかりと聞こゆ、年老いたる男の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟という所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関まで男の送りて、明日は古郷に返す文したためて、はかなき言伝などしやるなり。白波の寄する汀に身をはふらかし、海士のこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因いかにつたなしと、物いふを聞く聞く寝入りて、朝旅立つに、われわれに向かいて「行方知らぬ旅路の憂さ、あまりおぼつかなう悲しくはべれば、見え隠れにも御跡を慕ひはべらん。衣の上の御情に大慈の恵みを垂れて、結縁せさせたまえ」と涙を落とす。不便のことにはべれども、「われわれは所々にてとどまるかた多し。ただ人の行くにまかせて行くべし。神明の加護、必ず恙なかるべし」といひ捨てて出でつつ、あはれさしばらくやまざりけらし。
一つ家に 遊女も寝たり 萩と月
曽良に語れば、書きとどめはべる。
この感動的な市振宿での遊女との出会いはフィクションだとする説が強いが、それは置いて、芭蕉は越後路での出来事をまったくといっていいほど『おくのほそ道」では書いていない。それだけに、越後路の最後でのこの話は特筆ものだ。なぜ出雲崎あたりでしっかりと書き込まなかったのかと不思議な気もするが、それは置いて、全体の構成を考え、「やはり越後路にも何か入れよう」ということで「市振」でのこの遊女の話にしたのかもしれない。
芭蕉には書き手としての能力のみならず、編集者としての能力も多分にあった。
「高田→市振」間の行程は、曽良の「随行日記」では次のようになっている。
十一日 | 快晴。巳の下刻、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不届、直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉屋五良衛方ニ宿。月晴。 |
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十二日 | 天気快晴 能生ヲ立。早川ニテ翁ツマズカレテ衣類濡、川原デ暫干ス。午ノ刻、糸魚川ニ着。荒や町、左五左衛門ニ休ス。大聖寺ソセツ師言伝有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中刻、市振ニ着、宿。 |
11日の「五智・居多ヲ拝」とあるのは直江津の国分寺(五智如来)と居多神社のこと。居多神社は越後の一の宮になっている。
12日は早川の川渡りで芭蕉がつまずき、おそらく川の中で倒れたのだろう、川原でびしょ濡れになった衣類を干すとある。ちょっと笑える光景だが、それと同時に当時の旅の厳しさも感じられる。糸魚川から市振の間では、北国街道最大の難所、子不知・親不知を通っていく。だが「随行日記」でまったくふれられていないということは、以外と楽に通り抜けられたのかもしれない。
さて、高田を出発。直江津の国分寺と居多神社を参拝し、国道8号で糸魚川に向かってスズキST250を走らせる。谷浜、名立と通り、芭蕉が一泊した能生へ。このあたりは山々が海に迫り、海岸にはほとんど平地はない。姫川河口の糸魚川に着くと、若干の平地が見られる。その糸魚川を過ぎるとさらに険しい山々が海に迫り、青海を過ぎると子不知・親不知に突入。ここは国道8号の一番の難所。子不知・親不知抜け出ると市振だ。
旧道で北国街道の市振宿に入っていく。町並みの入口には「海道の松」。町並みの中央には「市振関所跡」。そこには「関跡の大榎」がある。芭蕉が遊女とともに泊まったという旅籠の「桔梗屋」跡もある。市振宿は国道8号の旧道沿いに家並みがつづいているが、その上を通る新道沿いに長円寺がある。その寺の境内には、「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」の芭蕉句碑が建っている。